高橋名人が明かす「裏技」誕生秘話 私が「冒険島」になった理由

かつて、テレビゲームは子どものおもちゃとして遊ばれてきた。ファミコンの発売から36年。近年では2016年に発売された「ミニファミコン」をはじめ、17年発売の「ミニスーパーファミコン」、19年9月19日発売の「メガドライブミニ」、20年3月発売予定の「PCエンジンmini」など、昔のゲームの復刻版が登場する動きが相次いでいる。テレビゲームは今や、子どもだけでなく大人も遊ぶエンタメになった。

そんなテレビゲームの「名人」と呼ばれた男がいたことを覚えているだろうか。ハドソンの広報・宣伝マンを務めていた、「16連射」で名高い高橋名人だ。在職中は「名人」として全国各地を渡り歩き、テレビゲームの普及活動に務めただけでなく、「裏技」「ゲームは1日1時間」という言葉の考案者の一人でもある。現在では国内eスポーツの振興にも注力している。

今回、名人本人がITmediaビジネスオンラインの取材に応じた。中編では、いかにしてファミコンの「名人」になったのか、「裏技」という言葉はどうやって生まれたのか。その誕生秘話をお届けしよう。

短大を中退してスーパーの店員に
――名人はどのような経緯で、ハドソンというゲーム会社に入社したのですか。

私がハドソンに入社したころ、本社が札幌にありました。実は私も札幌出身で、地元の企業だったから入社した、といういきさつはあります。でも、学校を出て最初からハドソンに入社したわけじゃありません。

高校を卒業したのち、大学への進学は考えていなかったのですが、親から簿記の勉強をしろと言われ、当時簿記が学べる課程があった豊平区にある北海道自動車短期大学(現:北海道科学大学短期大学部)に入学しました。入学はしたんですが、結局つまらなくて……。自動車短大だったので車の普通免許だけは取ろうと思いました。そのときに同級生からバイトしないかってことで声をかけられたのがスーパー、札幌フードセンターだったんです。

そこの青果部で働き始めたら、いろいろ面白いなと思いました。短大のほうは、入学して2、3カ月で中退しちゃいました。

――名人の最初の仕事はスーパーの店員だったんですね。

札幌フードセンターではアルバイトとして8カ月間働いたのちに、そのまま社員として3年間、働きました。入社後、岩見沢に転勤になり、働き始めて3年目の1981年に札幌に戻ってきました。そのとき街の中をぶらぶらしていたら、パソコンショップが目に入り、中に入ってしまったんですね。当時はマイコンショップと呼ばれていました。そしたら、そこにキーボード付きのパソコンが並んでいたというわけです。

なぜ入ってみようと思ったか。もともと私は「ウルトラQ」や「ウルトラマン」が大好きな少年でした。こうした作品の中でいかにもすごそうにコンピュータが出てくるのですが、これを見てコンピュータへの憧れというものがあったんですね。

もともと行きつけの喫茶店でインベーダーゲームをやっていたので、ゲームやプログラムがどんなものかは何となく分かっていました。そこでショップの店員から「これでプログラミングができていろんなことができるんだよ」って説明されて、思わず買おうって思ったんですね。シャープの「MZ-80B」という機種だったのですが、値段が27万8000円もしました。

3カ月分の給料をパソコンに投入
――当時で27万8000円ですか……。購入するには相当な覚悟が必要でしたよね。

今のパソコンの相場でも「高い」と思われるかもしれませんが、当時私の月の手取りが8万9000円。3カ月強の給料に相当します。さすがに1週間悩みました。結局24回払いで買うことになったのですが(笑)。

――給料3カ月分……。なかなかの勇気がないと買おうとは思わない気がします。

もしかすると、「スーパーの野菜はもういいかな……。これからはコンピュータだ!」と新しいものを探していたのかもしれません。とはいえ、プログラムのことも全然分かりませんでしたし、もちろんこの時点で「ハドソン」の名前を知っていたわけでもありません。

いざこうしてパソコンを買ってはみたものの、「MZ-80B」はクリーンコンピュータで、OSからインストールする必要がありました。ただ最初はそんなことも分からず、電源を入れてもうんともすんとも動かない。すぐに付属のカセットテープでOSを読み込ませればいいことに気付くんですけど、テープも2、3本あってどの順番で読み込ませればいいのか分からない。結局そのまま放置され、1週間ぐらいでホコリをかぶり始めるわけです。

――なんと!! そんな状況だったのですね。

このときによかったのが、支払方法が今みたいな自動引き落としではなく、振込用紙での支払いだった点です。ホコリを被り始めたあたりで振込用紙が送られてきて、「これがあと20回以上あるんだよな」と、はっとさせられたんです。パソコンを抱えてショップに行き、「最初だけ教えてください」と教えてもらいました。その後は自分で「月刊マイコン」などの雑誌に載っているプログラムリストを見ながら勉強していった感じです。

ちなみに、27万8000円というのは本体とキーボードだけの値段です。私はその後どんどんパソコンにのめり込んでいき、さらに、フロッピーディスクドライブが29万8000円、ドットインパクトプリンタが10万円、増設メモリが4万8000円かかりました。締めて72万4000円。ちなみに当時私が乗っていた中古車の値段が45万円だったので、車よりも高い買い物になりますね。給料8カ月分の買い物でしたが、今思うと実家暮らしだったからこそできたのだと思います(笑)。

ハドソンとの出会い
――スーパーからパソコンの話になり、少しずつゲーム業界に近づいてきたような気がします。ハドソンとの出会いはどこだったのでしょうか。

その後、正社員としてスーパーで働き始めてから3年経(た)ったタイミングの82年3月で会社を辞めます。このころには、「月刊マイコン」の表紙裏に載っていた広告を通じて、「ハドソン」の名前は知っていました。まだファミコンが登場する前で、ハドソンがゲーム会社になる前の話です。

本社が札幌市内にあり、面白そうな会社だなあとはずっと思っていました。札幌フードセンターを辞めてから、私は一度別の会社に入ります。1カ月半ぐらい経ったとき、東京都大田区にある東京流通センターで「マイクロコンピュータショウ」が開かれ、私は出展しているソフトハウスのお手伝いとして働いたことがあります。

そのとき、私はスーパーで培った経験から大声を出して「いらっしゃいませー!!」とやっていたんですね。そしたら、ブースの斜め向かいあたりにハドソンのブースがあり、そこに社長がいたというのが最初の出会いなんです。

その後、同僚から「ハドソンに面接に行くんだけど、お前も来る?」という感じで面接に行くことがあり、社長含む役員5、6人と面接することになりました。このとき、社長が「マイコンショウ」で声を張り上げていた私を覚えてくださっていたんですね。「お前みたいなやつが営業に欲しいな」という話になり、とんとん拍子で話が進みました。

こうして82年8月、私はハドソンに入社することになります。社員番号は31番。まだまだ小さな会社でした。

――82年の8月だと、ファミコンが発売される約1年前ですね。当時のハドソンではどんなことをしていたんでしょうか。

パソコンソフトの開発・販売ですね。私もプログラムに関心があって入社したような感じです。入社3日目ぐらいで「お前今日東京来れるか」と言われ、着替え1週間分ぐらいを持って上京。そのまま東京に配属され、こうして思いがけず故郷の札幌を離れた形になります。そのまま30年ぐらい東京にいることになりました。

入社して最初に担当したのは営業で、秋葉原にあるような各販売店の商品を調べたり、店頭ポスターを貼ったり、そういう仕事を1年ぐらいしていました。サポートセンターみたいな感じですね。その後、企画宣伝部に移りました。

「おもちゃ」と下に見られたファミコンソフト
――名人とファミコンとの出会いはどんなところだったのでしょうか。

ファミコンとの最初の出会いは、83年8月ぐらいに副社長がファミコンを持ってきたことです。マリオブラザーズとか、ドンキーコングとかをモニターに映してみんなで遊んだのを覚えています。まだファミコンが発売されて1カ月ぐらいのころですが、ソフトが30万本ぐらい売れているということで、「すごい」という話になったんです。当時のパソコンソフトはヒットしても1万本が関の山でした。

1万4800円という、ファミコン本体の安さも衝撃的でしたね。当時NECのPC-6001なんか9万円もしましたから。一方でソフトの値段は4000円で同じぐらい。これは絶対にやらなきゃいけないだろうと思いましたね。

――パソコンソフトメーカーだったハドソンがどのようにゲームメーカーになっていったのでしょうか。

ハドソンはもともとシャープのMZシリーズのソフトを作っていたのですが、「Hu-BASIC」というOSの開発もしていました。そこで任天堂がファミコンの周辺機器「ファミリーベーシック」を出したいということで、ファミコンに部品供与もしていたシャープからハドソンに依頼が来ることになりました。

このとき、私は宣伝部に異動して間もないころだったのですが、最初の仕事が『ファミリーコンピュータ・ファミリーベーシックがわかる本』の制作でした。初めての本作りの経験でしたね。

その後、「ハドソンでもゲームを出そう」という話になり、第一弾として「ロードランナー」と「ナッツ&ミルク」というゲームの開発が始まります。

――ハドソンのいち早い「転向」を、他のパソコンソフトメーカーはどのように見ていたのでしょうか。

このころはまだ、他のパソコンソフトメーカーさんはファミコンを「子どものおもちゃ」と下に見ていましたね。83年の12月にソフトメーカーさんたちが集まる忘年会に社長と一緒について行ったことがあるのですが、あるメーカーの社長さんから「なんでおもちゃに行っちゃうんだよ」と言われたのを覚えています。

ただ、こうした見方も翌年には変わりつつありました。84年7月に発売した「ロードランナー」が100万本を超える販売本数となり、他のパソコンメーカーの参入も盛んになっていったのです。

「裏技」の誕生
――「ロードランナー」の大ヒットが、ファミコンを「ただのおもちゃ」ではなくしたわけですね。

それまでのハドソンの年間売り上げを、この「ロードランナー」1本だけで超えてしまったほどです。実はこの大ヒットの裏に、ある重大な問題を抱えていました。それは「ロードランナー」で「はしごに右手をかけて止まっているときにロボットがすり抜ける」というバグが見つかったことです。

これがパソコンソフトであれば、「ここをこう直して下さい」ってやれば修正できたのですが、ファミコンはROMカートリッジなので修正が効きません。バグを直すにはソフトを回収して作り直したソフトと交換するしかないわけです。

――さすがに現実的な対応策ではなさそうですね。

「ロードランナー」は既に100万本出荷していましたから、これをやったらハドソンは確実に倒産してしまいます。さて、どうしたらいいかと小学館の雑誌「コロコロコミック」さんなどとみんなでいろいろ考えました。そこで出たのが「これ表じゃなくて、裏の面白い技としてむしろこっちから紹介したらいいんじゃないか」という結論でした。こうして表ではない裏の技、「裏技(うらわざ)」という言葉が誕生したわけです。プログラムのミスから生まれたものではあるんですが、プログラムのミスじゃないよと堂々とシラを切り通した形ですね。

ただその後、メーカーによってはゲームが進行不可能になる明らかなバグも「裏技」と言い張ったケースもありました。さすがにそれは違うだろうとは思いましたけどね。そういう背景もあり、「裏技がある=バグが出た」と同じことなので、メーカーとしては当時、裏技という言葉を使いづらかったこともあります。

「高橋名人」誕生へ
――こうして宣伝マンとしてのキャリアを歩んだわけですが、どのように「名人」になったのでしょうか。

きっかけは85年の3月下旬に銀座・松坂屋で開かれた「コロコロまんがまつり」でした。当時「ロードランナー」の続編である「チャンピオンシップロードランナー」の発売を控えていたのですが、このデモプレイのステージに私が立つことになったのです。

この予告記事がコロコロに載ったのですが、そこにはなんと「ファミコンの名人来たる!」と書かれていました。これが「名人」の始まりになります。この「コロコロまんがまつり」は大成功で、同じようなことを全国でやろう、という企画になります。これが、85年から97年の毎年夏に行われた「ハドソン全国キャラバン」です。

誰が実際にステージの上で新作ゲームをプレイするんだ、という話になったのですが、「コロコロまんがまつり」の盛況もあり、私しかいないような感じでした。こうして私は「高橋名人」として、ステージの上に立ってゲームの紹介をしていくことになります。

本当は17連射だった「16連射」

――その後、名人は「キャラバン」で毎年ステージの上に立ち、子どもたちのヒーローとなっていきます。シューティングゲームの連射の速さから「16連射」でも話題になりました。

これは気付いたら勝手になっていたものなんです。きっかけは85年のキャラバンで使用したソフト「スターフォース」の1面でラリオスという中ボスがいるのですが、「名人ラリオスを倒すのが異常に速いけど、一体どんなスピードで撃っているんですか」という問い合わせがあったことですね。

それで調べてみようということになったのですが、当時計測器というものがなく、ビデオでもちゃんと撮れずコマ送りもできなかったので、結局ラリオスを倒す速さから逆算しようということになりました。そうしたら、大体16連射ぐらいということが分かったんです。

ただ、この話には続きがあって、翌年のキャラバンのタイトルになった「スターソルジャー」に合わせ、「GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦」という映画を撮ることになりました。映画だと1秒間に24コマなので、コマ送りで実際にADさんが切り出して数えてくれたんです。そしたら、10秒240コマで174発。実際には17.4連射だったというわけです。それでも、コンピュータ的には16がきれいな数字なので、「16連射」ということになりました。

「冒険島」でハドソンの顔へ
――86年に発売したアクションゲーム「高橋名人の冒険島」でも登場することになりますが、どのようにハドソンの顔になっていったでしょうか。

「冒険島」はハドソンが一から開発したものではなく、アーケードゲームにあった「ワンダーボーイ」というゲームを移植しアレンジを加えたものなのです。当時「スーパーマリオブラザーズ」の大ヒットもあり、社内でも「アクションゲームが欲しいね」ということで開発が決まりました。

そこである程度できてきたところで、副社長と一緒に現場を見に行く機会があったんですね。そしたらそこで副社長が「いまお前人気なんだから、これ(主人公)お前にしたら」と言い出して、その場にいた開発スタッフもみんな「いいんじゃないですか」ってことになり、もう一日二日で私がゲームに登場することになったのです。

「冒険島」は、ゲーム大会(キャラバン以外)にも採用され、最終的に100万本を超えるヒット作になりました。ただ、当初は複雑な思いもありました。だって自分がプレイヤーキャラになったことで、自分が毎日死んでいくわけですから(笑)。今となってはいい思い出です。後編は11月30日(土)に公開いたします!

(河嶌太郎、今野大一)