中曽根康弘に長男が生まれたときのこと。妻が「お産で苦しんでいるときに、芸者を呼んで進駐軍とドンチャカやっていたとはなにごとです」と不平を口にすると、中曽根は自分は「国家的な仕事をしていたのだ」と釈明したという。
服部龍二『中曽根康弘』に載るエピソードだ。これは天下国家を語る者の正体をあらわす寓話のようでもある。
その中曽根が先月亡くなった。死を伝える記事の見出しには、戦後政治の総決算、ロンヤス関係、行政改革、国鉄改革などの言葉がならび、これらを業績として称えるものもあれば、それらが生んだ禍根を批判するものもあった。中曽根はそんな具合に功罪相半ばする元総理大臣であるとともに、戦後政治の生き証人でもあった。
知られるように中曽根は田中角栄元首相(1993年没)と同い年で、そのうえ同期当選でもある。初当選のとき、まだ自由民主党は存在せず、ふたりは民主党に所属した。程なくして田中は自由党に移り、中曽根はその自由党を批判する急先鋒となる。自由党は吉田茂の政党で、軽武装・経済優先の政党であり、対して中曽根は自主憲法・再軍備を主張し、自由党と民主党が合併する「保守合同」にも反対したという。
自民党が結党されると、田中は30代で大臣、40代で党幹事長と、異様な速さで出世していく。いっぽうで中曽根は傍流に身をおき、自分の派閥を持つようになりはするが、とはいえ「三角大福」(三木・角栄・大平・福田)からは出遅れた存在であった。後年、中曽根はライバルとして田中の名を挙げたというが(注1)、田中にすれば福田赳夫がライバルであり、中曽根は格下もいいところであったろう。
それでも中曽根は、田中に10年遅れで首相となる。そして「戦後政治の総決算」を謳い、本人いわく「吉田政治からの脱却」が中心にあった(注2)。同時に田中角栄的なるものの解体の面もあったろう。それは族議員による政財官の利権構造からの脱却であり、裏を返すと派遣法など「民活」という名の規制緩和の始まりでもあった。
国鉄改革はこうした中曽根の改革のシンボルと言える。この国鉄の分割・民営化を書いたノンフィクションに牧久『昭和解体』がある。ここには、政治家では中曽根vs.田中、三塚博vs.加藤六月、国鉄内では改革派vs.護持派、改革派vs.国労、国労vs.動労、こうした幾重もの対立のからみあいが詰め込まれている。それがそのまま、国鉄のややこしさを現し、分割・民営化が難事業であることを物語りもしている。
ところで、なぜ国鉄をめぐって、中曽根と田中が対立するのか。
田中は『日本列島改造論』で、「国鉄が赤字であったとしても、国鉄は採算とは別に大きな使命を持っている」と述べるように、「国土の均衡ある発展」のため、全国に鉄道を広げるだけ広げることを是とした。そんな田中主導で「日本鉄道建設公団」なるものが作られもした。ここが「国鉄に代わって新線建設を行い、完成した鉄道は、大きな赤字が見込まれても国鉄が引き受けて運営」しなければならず(注3)、いわば鉄道をつくっては国鉄に押し付けていたのである。
そんなこともあって国鉄は、22兆円の赤字を抱えるにいたる。国鉄の問題はこれだけでない。当時最大野党の支持母体でもある労組組織「総評」の中核となる「国労」を抱え、スト権ストなどの労働運動が政治課題となりもした。
この国鉄を分割・民営化してしまおうと中曽根に提言したのが瀬島龍三である。瀬島は中曽根が設置した第二次行政調査会、いわゆる臨調のメンバーである。
とはいえ中曽根は「田中曽根内閣」と揶揄されたようにヤミ将軍と呼ばれた田中の政治力を借りての政権運営を強いられており、国鉄内でも激しい対立があったため、難航を極めた。しかし1985年、田中が脳梗塞で倒れ、これによって勝負がつく。ちなみに田中が倒れた日のことを、ある新聞記者は「あの日ほど機嫌のよい中曽根さんをそれからも見たことがない」(注1)と回顧したという。
かくして中曽根は国鉄を解体し、それによって国労を弱体化させ、日本の労働組合を衰退させるのだった。
国鉄改革がそうであるように、中曽根は民間人のブレーンを活用し、官邸主導の政治をおこなった。そうしたブレーンの代表格とも言えるのが、土光敏夫であり、先に名をあげた瀬島龍三である。瀬島は戦時中は大本営参謀で、戦争が終わるとシベリア抑留を経験する。帰国すると伊藤忠に入り、防衛産業の工作などで暗躍し、会長にまでなる。
そんな瀬島はこう豪語している。「僕は中曽根ごとき者のブレーンではない。中曽根のためでなく、国家百年のためにやっている」(注4)。
瀬島について共同通信社会部『沈黙のファイル』にこんな話がある。シベリア抑留で一緒だった者が、高級将校の瀬島は「収容所で特別待遇され、使役に出る僕らを見送るだけだった」と振り返り、また、その者が戦後、フィクサーのようになった瀬島のもとに大気汚染問題への取り組みのお願いにいくと冷淡にあしらわれた。そして、では一体どんな仕事をこれからするのかと訊ねると、瀬島は「国家のために奉公します」と答えたという。
天下国家を語る者は、他者の生活を顧みないものなのだろうか。冒頭に記した、中曽根と妻のお産の寓話性と同様に、だ。こうしたひとたちによって行われた「戦後政治の総決算」は日本の社会になにをもたらしたのか。
それを中曽根の死によって、世間は現在の視点から振り返ることになる。
中曽根は自著で「政治家は、つねに歴史という法廷の被告席に立たされているのだ」という覚悟でいたと述べている(注2)。中曽根政権のもとで日本は繁栄を享受し、その持続・拡大のために多くの改革を中曽根は施した。
しかしながら、「歴史という法廷」で今にしてみれば、規制緩和の流れで「派遣法」が生まれたり、労組が弱体化したりするなどで、「一億総中流」と呼ばれる、ひとびとの暮らしぶりは昔日のものとなる。そのきっかけは新自由主義とも言われる中曽根政治にあったろう。むろんバブル崩壊後の始末のつけ方の失敗が大きいにせよ、だ。
ところで政治学者の服部龍二は上掲の『中曽根康弘』の前書きに、「首相退任から三〇年近くを経た現在、情報公開請求などで基礎文献を入手できるようになった」と書いている。中曽根が「歴史の法廷」に立てるのは、公文書のおかげでもあった。安倍晋三は果たして……。
(注1)服部龍二『中曽根康弘「大統領的首相」の軌跡』(中公新書)(注2)中曽根康弘『日本の総理学』(PHP新書)(注3)牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』(講談社)(注4)共同通信社会部『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)
(urbansea)