かつて、テレビゲームは子どものおもちゃとして遊ばれてきた。ファミコンの発売から36年が経ち、「ファミコン小僧」とも呼ばれた子どもたちは今や社会の中枢を支える年代になっている。
そんな子どもたちのヒーローがいた。高橋名人(60)だ。子どもたちの前では「名人」として全国各地を渡り歩き、テレビゲームの普及活動に務めた。大人の顔としてはハドソンの宣伝マンとしてテレビゲームの普及活動に努め、ゲーム史に残る数々の偉業を残している。だが、実はそんな名人も元は口下手であったといい、その素顔についてはあまり知られていない。
一体、どんな考え方で仕事をし、どんな結果を残していったのか。今回、名人本人がITmediaビジネスオンラインの取材に応じ、「名人」としての仕事哲学について語った。
小売業からソフトウェア業界へ
――名人は最初からハドソンに入社したわけではなく、最初はスーパーマーケットの青果部で働いていました。当時はどのような考えで働いていたのでしょうか。
私は札幌出身で、高校卒業後は「札幌フードセンター」という地元のスーパーで働いていました。野菜などを扱う青果部というところにいたのですが、なぜ、青果部を選んだかと言うと、人って肉や魚を食べなくても生きていけるけど、野菜だけは絶対食べていかなきゃいけないんだろうなという考えからでした。そうしたら色んな野菜の名前を知っていたほうが有利なんじゃないかな、と思ったのがきっかけです。単純にそれだけの動機だったんです。
――「野菜だけは絶対食べてかなきゃいけないんだろう」というのはどういうことですか?
肉って大きく4種類しかないんですよ。牛・豚・鶏・羊。北海道だから羊も入りますが(笑)。それぞれを細かくすると、牛は牛でも肩ロースなどいっぱいあります。でも、野菜って菜っ葉系だけでも、春菊から小松菜、ほうれん草とか三つ葉とかいっぱいあるじゃないですか。その奥深さに「なんか面白そうだな」と思ったんですよね。例えばジンギスカンを食べるときには、一緒に入れる玉ねぎやもやしが欠かせません。でも、同じ玉ねぎでも紫玉ねぎではありません。どうしてなんだろう。そんなことを考えていました。
――その後、名人はパソコンと出会い、1982年3月に札幌フードセンターを退社します。趣味の世界が高じて、当時パソコンソフトメーカーだったハドソンに入社されるわけですが、どのような考えから転身したのでしょうか。
札幌フードセンターは社員として3年働いたタイミングで辞めました。パソコンとの出会いはそれよりも少し前ですが、野菜はもういいかな、何か新しいことをやろう、という考えがどこかにあったのだと思います。パソコンにのめり込むうちに、「これからはコンピュータの時代だ」と、ソフト業界に関心が移っていきました。ハドソンは当時札幌に本社があり、実家から近い地元の会社だからということで入社したつもりでした。82年8月のことです。
――ハドソンではどんなお仕事をしていたのでしょうか。
実家から通えるということで入社したはずが、入社後3日で東京に行き、都内のパソコンショップなどで営業活動をしていました。1年ぐらいしたのち、企画宣伝部に異動になった形です。最初に担当した仕事が、ゲームの攻略・解説本の編集です。その後、小学館の雑誌『コロコロコミック』さんなどの付き合いから「コロコロまんがまつり」といった雑誌のイベントに合わせて、新作ゲームの紹介をステージの上でやるようになっていきました。口下手で人前に出るのが恥ずかしい私にとって、これが一番辛かったです(笑)。
実は口下手だった高橋名人
――子どもたちのヒーローだった名人が実は口下手だったんですか!
今となっては誰も信じてくれないですけどね(笑)。でも、宣伝マンとして自分がやらないと、売り上げが上がらないので「これはまずいな」というのが頭の中にありましたし、ステージに出て行ってとにかく大声を出したら何とかなるだろうという意気込みで最初のうちはやっていました。幸いスーパーで働いていた経験から大声を出すのだけは得意でした。
――「名人」の姿を知っている者からすると、信じられません(笑)。口下手だと、営業などの際には大変だったのではないでしょうか。
こんな失敗談があります。入社してすぐに、「HuCAL」というプログラムの実演販売を担当しました。これは表計算ソフトみたいなもので、セルの中に255文字以内でプログラムが書けるというものでした。あるとき営業の先輩が「秋葉原のパソコンショップの店員を集めて講習会を開く」という企画をし、一緒について行ったんです。そしたら行った瞬間に「じゃあ高橋頼む」っていきなり言われたんですね。いきなり先生ですよ。まだ何も勉強してないのに。
――どうやって乗り切ったのですか。
乗り切れたのかどうかは分からないです(笑)。もうマニュアルを見ながら、1つずつ教えていくしかなかったですね。先に言ってよ、と思いました。1時間か1時間半でやったと思うんですけど、いまだに何を説明したか全く思い出せないですね。終わってからは、もはや反応を聞くなんてレベルじゃなかったです。とにかく時間を持たすことができた、という感覚でしたね。
――自分が口下手ではなくなった、と思われた経験はありましたか。
85年の夏から全国で開いたゲーム大会「ハドソン全国キャラバン」ですね。子どもの夏休みを利用して、2班に分かれて全国のおもちゃ屋を渡り歩くもので、私は南の鹿児島県から北上していく形で毎日のようにステージの上に立つようになります。
最初の鹿児島では、「ステージをうまく回そう」なんていう余裕はなかったですね。手応えを感じ始めたのは、熊本の大会あたりからです。やっぱり会場が盛り上がるときってあるじゃないですか。例えば最初オープニングで説明があって、大会はこんなふうにやっていきます、じゃあデモンストレーションやってみようか、となって2分間とかでやるわけですよね。そのときにすごい歓声が上がった瞬間があるんですよ。
――自信を持てるきっかけになったわけですね。
本当に苦手だったら壁は乗り越えられなかった気がします。引っ込み思案だったのは間違いなかったんですが、一回イベントで何かが成功すると、その瞬間に今まで苦手だったものが面白くなるんですね。これが成功したから、「次はこれをやってみよう」って、自分のハードルがちょっとずつ高くなっていくのが分かるのです。これが口下手であることを乗り越えられた要因だと思います。
「ゲームは1日1時間」の意味
――高橋名人といえば、イベントや大会が終わると毎回サイン会があった話も有名です。名人にサインをもらった子どもも少なくないそうですね。そのようなファンサービス精神はどこから生まれたのでしょうか。
あれは実は、子どもたちに怪我(けが)をさせないようにするためだったんですよ。怪我をさせないようにする、というよりも単に子どもたちが邪魔だったから、というほうが当時の考え方に近いかもしれません。イベントが終わると、子どもたちが散らばっちゃって、デパートの売り場などそこら中を走り回っています。
そんな中で、50~60キロあるモニターなど重いものを片付ける必要があります。だから子どもが横にいて、万が一ものを落とすと怪我をさせてしまうわけです。それはさすがにまずいので、片付けをしている間にサイン会を開こう、というアイデアが生まれました。サイン会をすれば始まるまで子どもが並んでくれますから。重たいものを片付け終えるまで子どもを並ばせておいて、細かいものだけになったときにサイン会を始めればいい、というわけですね。
――「子どもファースト」の考え方ですね。「ゲームは1日1時間」という標語も高橋名人が現場で生み出したそうですね。
実はこの言葉は子ども向けというより、イベントに来ている父兄に向けて言った言葉なんです。特にお母さん向けですね。当時は家庭内の大蔵省、今で言う財務省はお母さんで、お母さんに財布を開けてもらわないと子どもたちがゲームソフトを買ってもらえませんから、味方になってもらう必要がありました。
お母さんの敵は何かって考えると、子どもがゲームばかりやっていて勉強をしないということなんですよ。もちろん、遊びはゲームだけではないわけですが、野球やサッカーみたいに外に行く遊びと違って、ここで悪く見られるのはテレビゲームだと思ったんです。
――やはり、テレビゲームは新しい遊びとして保護者から忌避される恐れが当時からあったわけですね。
ファミコンより前にインベーダーゲームというものが流行っていました。当時「インベーダーハウス」とも呼ばれたゲームセンターは「不良のたまり場」と見なされ、小中学生の入場を禁止する通達がPTAから出されていました。「ゲームセンター=悪」という見方が既にあったわけです。「テレビゲーム=悪」という図式が定着することはメーカーとしても避けなければいけません。そうなってしまうと業界的にも先が短くなってしまいますから。
「ファミコンで遊ぶな」とは言えない
――とはいえ、単刀直入に子どもに「勉強しろ」とも言えないですよね。
私もそうでしたけど、ただ「勉強しろ」と言われて勉強する子どもは少ないと思います。とはいえ、「ファミコンで遊ぶな」とは言えないですし、「時間を制限して遊びなさい」って私が言っても守らないだろうなと思いました。
そこで最初に出てきた言葉が「ゲームをうまくなりたいんだったら、1時間集中して遊びなさい」というものだったんです。だらだらとプレイして失敗したところが記憶に残っても絶対うまくならないんだと。上手にプレイできる1時間だけを本当に集中してやることで、みんなどんどんうまくなるんだよっていう言い方をしたわけです。
――ただ、会社としては売り物を自ら抑制する話になってしまいますよね。
もちろん、会社的にはまさかこんな言葉が出るとは思っていなかったと思います。どんどん遊んでもらうために宣伝活動をするわけですから。私が初めてこの言葉を言ったのは、ステージに手応えを感じ始めた熊本大会から数日後になる、85年7月26日の福岡県のダイエー香椎店(当時)でのことでした。
他の小店舗の会場だと大会に参加する子どもだけという場合も少なくなかったのですが、この会場は広い地域から子どもが親と車で来るような大規模店でした。だから会場には親御さんも多く来ていて、「何か言わなければいけない」と思ってしまったんです。親御さんからの反応は悪くなかったのですが、大きい会場だったたので、そこに問屋さんの人もいたわけです。すぐに「お前のメーカーの社員が『遊ぶな』みたいなことを言っている」という問い合わせが営業にいきました。
そのままハドソンの上層部に伝わり、「高橋が変なことを言っている」と、翌日には役員会議が開かれたのです。
――最終的にはそこから「ゲームは1日1時間」という言葉が生まれたわけですね。
その役員会で社長や副社長が、将来のことを考えたら健全な方向に持っていくほうが正しいという結論になりました。「メーカーとして後押しするから、標語としていい言葉を作れ」と言われましたね。それで「ゲームは1日1時間」という言葉が生まれたわけです。ただ、子どもたちからの反発はすごかったですね。一番多かったのは「1時間ではクリアできない」というものでした。
――ゲームというものを健全なイメージにさせ、世の中に定着させていこうという狙いが見て取れます。
やはりテレビゲームは新しい遊びだったので、この遊びを大きくしていくためにはどうしたらいいか、将来ずっと面白いものにするためにはどうしたらいいか、飽きさせないためにはどうしたらいいか、ということをずっと考えていました。
ゲームは最高のコミュニケーションツール
――自身が主人公になったアクションゲーム「高橋名人の冒険島」では、普通のゲーム大会とは違った子どもたちとの交流があったようですね。
「冒険島」は86年に発売したゲームで、私がマリオみたいなプレイヤーキャラクターになっているゲームなんですね。当時ファミコンブーム全盛で、小学校1年生とか幼稚園の年長組の子どもも、ゲーム大会にガンガン参加してきて、ファミコンユーザーの年齢がどんどん下にいっていた時代でした。今までのメイン層だった小学校高学年や中学生も遊んでいるんですけど、それでも大会で年齢制限を設けることはしませんでした。
そのため、中学生とか小学5、6年生と一緒に、小学校1年生とか幼稚園の年長さんが一緒に遊ぶんですよね。勝てるわけがないんですよ。最初の「1-1」のステージがクリアできないことも珍しくありませんでした。そうしたら、彼らは彼らなりに勝ち負け以外の面白いことを考えるんですね。
何をするかって言うと、「即死トラップ」であるたき火の前で待って、「ピコン」ってポーズするんですよ。ゲーム大会でポーズボタンの音がするって通常あり得ないことなので、「どうした」って行くじゃないですか。すると、私の顔を見てにこっと笑って、ポーズを解除してたき火に突っ込むわけです。私の目の前で私が全身火だるまになって死んでいくんですよね。
ここからはもう漫才ですけど、「あ、人殺し!」って私が言うと、子どもがぎゃははって笑うっていう。すると他の子どももまねし始めて、その繰り返しでした。幼稚園児の参加者が出てきたら全てそれでしたね。
――まさに、ゲームを通じた名人の一つのエピソードと言えそうです。名人にとってゲームとはどういう存在なのでしょうか。
ゲームというのはツールです。ゲーム自体としては、全ステージクリアするとかエンディングを見るといった目的があるんですけど、私は、ゲームは「会話のツール」だと思っています。おじいちゃんと孫がしゃべるような感じで、年齢関係なく話せるきっかけを与えてくれるのがツール、これがゲームだと思っています。あとはそのツールをどう使うかは人それぞれです。
ゲームはツールであるからこそ、つまらないゲームにも価値が生まれるんです。つまらないゲームという意味の「クソゲー」という言葉がありますけど、それでも遊んでみて、「やっぱりクソだったね」って言って、これでも話題になるんですよね。
ゲームとして面白いというのは作り手としては当たり前で、それはより多く売れるものになります。でも、どんなにつまらないゲームであっても、話題のネタになるっていう時点で、今でいう「バズっている」わけなんですよね。どんなゲームでも、ツールとして考えると、ゲームはもう最高のコミュニケーションツールですよ。
(河嶌太郎、今野大一)