来年1月で阪神大震災から25年となるのを前に、犠牲者らの名前を刻む「慰霊と復興のモニュメント」(神戸市中央区)で14日に開かれた銘板を追加する式典。復興のシンボル「はるかのひまわり」で知られる加藤はるかさん(当時11歳)の父史朗さん(享年76)ら、4人の名前が新たに加わった。
「自分の気持ちをほとんど語らない人だった」。はるかさんの姉菊地いつかさん(40)=神戸市西区=は、今年8月に肝不全で亡くなった父をこう振り返る。震災で東灘区の家が全壊し、はるかさんが家族で唯一犠牲になった後、遺体安置所と葬儀でわずかに涙を流しただけ。朝早く仕事に出かけて、帰宅後は夕食を取ったら部屋にこもる。酒量が増え、アルコールに依存するようになった。
それでも、震災のつらい記憶や母との衝突に悩んでいた少女時代のいつかさんには優しかった。一緒に飲みに行くと、いつもうなずきながら話を聞いた。いつかさんが20歳で家を出て独り立ちすると決めた時も「やってみたら」と応援してくれた。
いつかさんは2002年ごろから、自宅跡に花を咲かせた「はるかのひまわり」を広げる活動に加わった。父はそばで見ているだけだったが、ある日、ヒマワリの種を小分けにした袋が増えていることに気がついた。「お父さんが知らない間にやってくれている」。照れてはぐらかされそうで、あえて尋ねなかった。カバンの中にそっと種を入れているのも見た。誰に配っていたのかは分からない。いつかさんは「私を応援しようとしてくれていたんだな」と思う。
約3年前からほぼ寝たきりだった。昨年9月、いつかさんが長女良(りょう)ちゃん(1)を出産した時は涙を流して喜んだ。「はるかが死んだ時の気持ちは誰にも言わず、墓場まで持っていく」。生前、いつかさんにぽつりと漏らした言葉の通り、震災のことは何も語らずにこの世を去った。
モニュメントには、はるかさんと、11年に亡くなった母満子さん(享年61)の名もある。この日、銘板を貼り付けたいつかさんは「はるかと母と、ここに一緒に名を残せてよかった。これで娘としての役割は終えたかな」とほほ笑んだ。【反橋希美、中川祐一】