徳岡孝夫さんと中野翠さんが合計40本のエッセイを寄せた『 名文見本帖 泣ける話、笑える話 』(文春新書、2012年刊)より、心揺さぶられる「泣ける話」を特別公開。今回は徳岡孝夫さんの「投げ忘れた花束」です。
◆◆◆
大津波で家族や家を失った人々が、着の身着のままで取りあえず高台の小学校に避難した。食べる物がない。1枚の毛布もない。寒さに震えながら一夜明かして、やっと炊き出しのおにぎりが届いた。つかみ合いの喧嘩になるかと思ったら、日本人は行儀正しく列を作って1人1個のおむすびを貰っている。日本人の規律、礼儀正しさ。それは外人記者が震災第一報の中に書いて世界に発信した「日本人の美徳」だった。
昭和30年の春、駅前にヤミ市の跡が残る大阪駅、長距離列車の切符を売る窓口は、56年後の震災の避難民と同じ日本人とは思えなかった。声の大きい、態度のデカいヤツが切符にありつく。順番も礼儀もない騒ぎだった。低いカウンターの前にひしめく戦後10年の日本人は、強いもの勝ちで争っていた。
少なくとも30分の闘争を経て、25歳の若さにモノをいわせた私は、首尾よく獲物にありついた。「3月16日21時6分大阪発、佐世保行き下り夜行急行一〇〇一列車、特2」を連席で2枚である。それは、その日に大阪で結婚する妻と私を雲仙温泉へ連れていく、新婚旅行の切符だった。
他の列車ではダメ。私は一〇〇一の列車番号に想いをこめた。その日から始まる夫婦の「千夜一夜の物語」を、それに相応しい番号の列車で飾りたかった。
アラビアン・ナイトか、それとも金と銀の鞍を置いたラクダに乗って月の砂漠に旅立つ王子様と王女様か。とにかく幸せへの出発にぴったりの列車だと信じ込んだのだった。
父は、はじめ私の結婚に反対した。そのことで親子の間に涙を浮かべた言い争いもあったが、父は折れた。二十数年後の父の死後に妹から聞いた話では、父の反対はもっともだった。妻の母親は戦後まもなく逝き、私の母も昭和12年に27の若さで死んでいた。父は、私たちを継子にしたくなかったがために再婚の話を断り、3人の子を育て上げた。「母のない者同士が結婚したら、お産のときどうするねん」が、父の反対した理由だったそうである。
結婚式の日は、穏やかに晴れた春の日だった。父と祖母、弟妹と私の一家5人は、船場の家からゆっくり式場の国際ホテルへ歩いていった。まず写真の撮影があり、御霊神社の宮司さんが来て式があり、披露宴になった。父は最初に反対したことを水に流し、気持ちよくみ、気持ちよく酔った。妻は終始緊張し、昔の花嫁の例で固い顔をしていた。お色直しで旅行用のスーツに着替えてきて、黙ってお辞儀をした。
雲仙行きの切符は買ってある。一同にぎやかに大阪駅へ繰り込んだ。東京発の列車が入ってきた。
私は汽車は常に3等であった。身分に合わない特2など、生まれて初めてである。妻を先にして乗り、切符の指定する席に座り窓を開けた。
現代人には解説が必要だろう。昔の汽車は窓が開いた。送る者、送られる者が、じっくりと別れを惜しむことができた。窓辺に近寄るのも遠慮し、ホームの蔭で泣いていた「可愛いあの子が忘られぬ」という流行歌さえあった。昔の日本では、遠慮は美しいことだったのである。むろん新婚旅行をバンザイで送るような無作法はしなかった。
プラットホームの端に立つ父は窓越しに私に花束を渡して言った。
「懐仁病院の前を通るとき、窓から投げてくれ」
私は無言で花束を受け取った。何か言えば涙がこぼれただろう。懐仁病院(いまの兵庫県立西宮病院)は、結婚式から18年前に私の母が死んだ病院であった。
母は享年27、そのとき私は7歳の小学2年生で、さらに弟妹がいた。弟は、生まれてまだ10ヵ月だった。
抗生物質さえあれば死ぬ必要のない病気だった。病床の母は何度も「死にとむない」と言った。3人の子を残して……死ぬに死ねなかっただろう。
悪いことに、そのとき父は盲腸炎が腹膜炎に悪化し、同じ病院に入っていた。夫婦、どっちが先に死ぬかという状態だった。私は父が移動ベッドに乗せられ、母のベッドの隣に押してこられたのを憶えている。
「芳子、しっかりせなあかんぞ」
「あんたこそ、しっかりしてもらわなあきまへんがな」
夫婦とも横を向くことさえ難しかったから、2人とも天井を見たままそう言い合った。今でも声が聞える。母の臨終は昭和12年の菊の節句、晴れ渡った明治節の午後だった。
父は担架で担がれて帰宅し、母の葬儀に出た。喪主の私は白の裃(かみしも)をつけ、1年と2年を担任した女先生が2人そろって会葬してくださったのが嬉しい稚さだった。棺の中で、母は菊花に埋まっていた。それからの生涯を、父は独り身で通した。つらかっただろう。
ベルが鳴って一〇〇一列車は動き出した。私も妻も窓から手を振った。動く列車に沿って父の走っているのが見えた。
「あれは危なかった。駅員さんが抱き止めてくれなかったら、お父さん、動く列車に触れて大怪我してるところだったのよ」父の死後に妹がそう言った。
「やれやれ済んだね」夫婦はその日初めて顔を見合わせて微笑した。車内はガランとしていた。東京と佐世保の基地を結ぶ進駐軍専用列車が、日本人に開放されて間もない頃だった。特2でもある。新婚組がわれわれ以外に3組か4組、あとは進駐軍の将校らしいのがチラホラいるだけ。言い合わせたように片手で捧げ持ったペーパーバックを読んでいた。
ほっとして、進駐軍がしているように椅子の背を倒そうとしたが、どうすればいいか分らない。
車掌を呼び止めて教えてもらった。もらったのはいいが、今度は背を元に戻せない。また車掌を呼んだ。盗み見すると、どの新婚組も同じように教えてもらっている。
たしか神戸に一時停車したと思う。窓の外を「すま」という駅名が走った。
「アッ」
列車が西宮を通過したとき、花束を投げるのを忘れていた。
父が万感こめて頼んだに違いない母への贈り物。「見てくれ、芳子。孝夫を一人前にしたよ」という伝言。私はそれを忘れた。頼まれて、僅か10分か15分後に忘れた。馬鹿息子は、椅子の背の倒し方ばっかりに気を取られていた。特2に乗ったことのない貧乏人の悲しさか。
その夜の12時ごろ、汽車は広島に停車した。原爆からまだ10年、車窓から見る夜の広島には灯火ひとつなかった。私はそっと西宮で投げ忘れた花束を、広島の闇に向かって投げた。
万死に値する失敗を、私はとうとう生前の父に打ち明けなかった。父も「確かに投げただろうな」と訊ねなかった。
(徳岡 孝夫)