亡き母へ「元気でやっているよ」寿司店主が遺族代表あいさつへ 阪神大震災25年

神戸市で17日に開かれる阪神大震災25年の「追悼の集い」で、同市東灘区の「灘寿司」店主、上野好宏さん(47)が遺族代表としてあいさつすることになった。母美智子さん(当時47歳)が亡くなって四半世紀。家業を継ぎ、父となり、そして今年は当時の母と同じ年齢で、あの日を迎える。
1995年1月17日、大学4年だった上野さんは東京都内のアパートにいた。午前7時ごろ「神戸が大変や」という友人からの電話で目を覚ました。テレビを見ると阪神高速が倒れていた。「何やこれ。説明せんかい」。思わず友人に声を荒らげた。
神戸市東灘区にあった実家の電話は一日中つながらなかった。翌朝、叔母から「お母さんが埋もれている」と連絡があり、新幹線に飛び乗った。電車を乗り継ぎ、友人に自転車を借りて実家にたどり着くと、父数好さん(2017年に73歳で死去)が立ち尽くしていた。「あかんかったわ」。母と対面したのは近くの遺体安置所だった。葬儀の時、腫れた顔にみんなで化粧をした。
物心がついたころから、母はいつも実家近くにある「灘寿司」で、夜遅くまで父と働いていた。小さな店は、いつも活気にあふれていた。お客さんと会話しながら見せる母の笑顔が好きだった。
父は数カ月後、倒壊を免れた店を再開させた。震災後、いったんは大手食品会社に就職した上野さんだったが、母に生前、「お父さんに何かあったら店を頼むね」と言われていたことが気になっていた。「ここですし屋をやらないと後悔する」。97年春に退社し、父の下で修業を始めた。

仕事を一から学び、その2年後に客にすしを出すようになったが、反応は厳しかった。くじけそうになった時には、母が生前に手書きした値段表を見た。「かいわれ巻 150」「はまち 300」。眺めていると「両親が育てた店を自分が守る」という原点を思い出した。
17年、店は数十メートル離れた場所に移転。その時から母の値段表は額に入れ、奥の壁に掲げてある。父が亡くなった後、店に立つのは自分だけ。たまに値段表が目に入ると、母が店を見守ってくれるようで落ち着く。
3人の娘の父として、今、同じ年齢で突然亡くなった母の気持ちが痛いほど分かる。「子どもが成長する姿を思い描いていたのだろう。どれだけくやしかったことか」
17日は遺族代表としてあいさつした後、店を開ける予定だ。「元気でやっているよ」。昔なじみの常連客たちと一緒に、母へ報告するつもりだ。【黒詰拓也】