【長谷川幸洋】立憲・国民「合流ご破算」が示す、野党の混乱が永遠に終わらないワケ 令和になっても懲りずに内ゲバ…

立憲民主党と国民民主党の合流がご破算になった。「これで、野党のドラマは終わりか」と言えば、そうではない。むしろ、ここからが本番ではないか。本格的な内ゲバが始まって「旧民主党勢力の分裂はさらに深まっていく」とみる。
両党の合流話は、立憲の枝野幸男代表が昨年12月、国民の玉木雄一郎代表らに呼びかけて始まった。2020年の通常国会までの合流を目指したが、協議は難航し、結局、1月20日の国会開幕に間に合わず、破談になった。

枝野氏は国民の吸収合併を目指し、新党の名前も「立憲民主党」を譲らなかった。一方、玉木氏は参院議員らを中心にした党内の慎重派を説得できず、折り合えなかった、と報じられている。
なぜ、このタイミングで合流話が出たかと言えば、2020年中にも解散・総選挙がある、とみられたからだ。各種世論調査で国民の政党支持率は1%前後にすぎず、国民の衆院議員たちは「これでは選挙を戦えない」と危機感を募らせていた。
国民民主党の玉木雄一郎代表(Photo by gettyimages)
枝野氏はその足元を見て、合流のボールを投げたが、昨年7月の参院選で立憲と激しく争った国民の参院議員たちは、抵抗感が強かった。参院選は当分ないのだから、彼らは焦って合流する必要はなかったのだ。
私は、かねて「左翼は逃亡と裏切り、内ゲバで倒れる」という「左翼崩壊の一般理論」(笑)を唱えている(2019年10月18日公開コラム、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67864)。これは旧ソ連の崩壊から韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権、中国の習近平政権に至るまで、古今東西、万国共通のセオリーと思っている。
まず、左翼勢力の内部でこっそりと戦線離脱=逃亡が始まり、やがて裏切りが起きる。それが一段落すると、残ったメンバーの間で路線闘争が起きて、激しい内ゲバに至る。そして政権が崩壊、あるいは左翼勢力が散り散りバラバラになる、という理論である。
この一般理論は、旧民主党勢力についても、ぴったり当てはまる。旧民主党は2016年3月に旧維新の党と合流し、民進党に変わった。だが、民進党は長続きせず、18年5月に小池百合子・東京都知事が立ち上げた希望の党と合流し、国民民主党が誕生した。
その際、希望側に合流を拒否された枝野幸男氏が立ち上げた政党が、立憲民主党である。国民も、旧民進党議員らが一致団結して新党に参加したわけではない。合流協議の過程で何人もの議員が立憲に加わったり、希望の党にそのまま残ったりした。
ここまでの段階で、旧民主党勢力の中で「戦線離脱=逃亡」は、すでに発生していた。中には、野党を完全に離れて、与党に転じた旧民主党議員もいる。たとえば、無所属になっていた細野豪志氏は19年1月、自民党二階派に加わった。長島昭久氏も同年6月、自民党に入党している。旧民主党勢力から見れば、これは「裏切り」だろう。

今回、立憲と国民の合流がご破産になったのは、国民内部の路線対立が大きな理由だ。立憲は党名をはじめ、大きく妥協しなかったが、国民は「それでも合流したい」勢力と「焦る必要はない」勢力に分かれた。
この対立は今回の合流話が流れても、解消するわけではない。衆院解散が近づけば、再燃する可能性が高い。先に述べたように、国民の衆院議員たちは党の低支持率のために、当選が危ういからだ。つまり、内ゲバはこれからが本番なのだ。
一方、立憲の側も問題なし、とは言えない。
それは、野党として「いったい何を目指すのか」という根本の問題に関わっている。私は、立憲の人々は「戦う野党」であることに満足していて「本気で政権奪取を目指しているわけではない」と思っている。そもそも、彼らの結党の原点は「権力と戦う」ことなのだ。どういうことか。
立憲民主党のホームページには「国民との約束」というタイトルで、立憲主義について、次のように記されている(https://cdp-japan.jp/about-cdp/yakusoku)。
立憲主義とは、政治権力が独裁化され、一部の人たちが恣意的に支配することを、憲法や法律などによって、抑制しようとする立場です。立憲民主党とは、日本に立憲主義を回復させ、互いの違いを認め合い、ともに支え合う社会を実現する政党です。
これを論理的に言い換えれば「日本では政治権力が独裁化され、一部の人によって恣意的に支配されている」「だから立憲主義を回復させ、憲法や法律で抑制するために、私たちは戦う」という話になる。回復と言う以上、現状は「立憲主義が機能していない、つまり独裁」と認識しているのだ。

私は「権力が独裁化されている」という現状認識が、そもそも間違っていると思うが、百歩譲って、それは彼らの勝手だから、よしとしよう。そんな認識を前提に、彼らは「憲法や法律を使って独裁の権力と戦うのが使命」と唱えている。
そうだとすれば、彼らは永遠に権力と戦い続けなければならない。そんな戦士が自ら権力を目指して、どうするのか。あるいは、そんな彼らが独裁者を倒して権力を握ったら、新たな権力者になった彼らを、今度は誰がチェックするのか。誰もいなくなってしまう。
権力を抑制するのが彼らの使命なのに、彼ら自身が権力奪取を目指すこと自体が論理矛盾なのだ。つまり、彼らは原理的に政権奪取を目指すことはできない。あくまで「政権をチェックする、監視する、抑制する」のが、彼らが自らに課した使命であるからだ。
なぜ、こんな自己矛盾が起きるのか、と言えば、そもそも「立憲主義」の理解を間違えているからだ。「権力の独裁を抑制するのが立憲主義」という考え方は、日本の左翼や憲法学者の間で通説になっている、だが、実は、そんな話は憲法のどこにも書かれていない。
憲法の前文は次のように記している。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
これを素直に読めば「国政は国民の信託契約であり、権力は国民の代表者が行使し、福利は国民が享受する。これが憲法の原理だ」という話になる。
国民は自分たちの代表である国会議員を選んで、内閣=政府を作る。そして、政府と国会議員が国政を担う。憲法前文は、この関係を簡潔に「国政は国民の厳粛な信託による」と言った。しごく当然の話ではないか。

左翼が「憲法は権力を抑制するもの」と曲解してきたのは、権力と戦うのに、憲法を御旗に掲げたほうが都合が良かったからだ。立憲民主党は、そんな左翼の勝手な屁理屈を、そのまま結党の原点に掲げた政党である。彼らは権力と戦うことで、十分に満足している。
彼ら自身は権力を握れない。いや、間違って権力を握ったりしたら、とんでもないことになるだろう。自分たちは「権力チェックを必要としない、オールマイティーの政党だ」と思い込むに違いないからだ。
これこそが「左翼政権がもたらす悪夢」にほかならない。