「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(通称・グローバルファンド、GF)」の戦略・投資・効果局長を務める医師の國井修氏が、誰も置き去りにしない社会について会いたいゲストと対談する企画の4回目は、元外交官の飯村豊氏を招いた。(中)では、日本の国際援助の歴史と変化について語り合った。
飯村 時代が変わったと感じたのはインドネシア大使をしていた04年12月、アチェの大地震のときです。
國井 私もインドネシアを含めて被災地に何度か行きました。
飯村 あのとき私は津波の直後に副大統領に頼み込んで、軍用機で現地に入りましたが、その後アチェに大使館の事務所も設け、日本から来るさまざまな支援をコーディネートしました。さらに、自衛隊も来てくれました。護衛艦3隻、計1000人以上の自衛官が出動しました。日の丸をつけた輸送機が先遣隊として飛行場にいるのを見たときはうれしかったですね。涙が出ました。
自衛隊の護衛艦からトラックを乗せたホーバークラフトが出て次々にアチェの海岸に上陸するのを見守りました。翌日のインドネシアの新聞のトップをこのニュースが飾ったのを覚えています。民間NGOが国際貢献を進めるなか、国も波長を合わせるかのように緊急援助隊を作り、自衛隊も入れる制度ができていった。政府の資金をNGOにも流れるようにしようとジャパンプラットフォームを作ったのもそういう流れの中でです。
國井 あれは画期的なことでした。財界と政府、民間が協力して実現したものですからね。日本の緊急援助の貢献度も上がったと思います。
飯村 オールジャパンの体制です。
國井 緊急援助も重要ですが、日本や現地のNGOを通じて開発援助を行うようにもなりましたね。「草の根無償」といったネーミングもよかったと思います。
飯村 それまで日本は、道路や橋を作る大きなインフラを中心に援助を行ってきました。でも途上国では、地域のクリニックや学校も必要とされている。そうしたことにあの資金は今も活用されているんじゃないでしょうか。
國井 91年から00年まで日本のODAは右肩上がりを続け、ODA総額ではその10年間、世界1位でしたね。アメリカより多額だったのは驚きですが、私もその間ODAに関わっていて、内容の変化も感じました。昔はハードや箱物、例えば病院の新築や機材供与などが援助の主流でしたが、次第に地域保健や母子保健を推進するための人材育成やシステムづくりなどソフトやシステム強化も重要視されるようになった。
飯村 そうですね。保健医療だけでなく、日本の援助の転換期でした。量だけでなく質はどうなのかに皆が注目するようになった。試行錯誤しながら、日本の援助の姿が変わっていきました。一つはハードからソフトです。
僕が衝撃を受けたのは、経済協力局長になったとき。英国の開発庁の次官が部屋にやってきて、あいさつもそそくさと「日本の援助はハード中心、インフラ中心で古い。途上国が必要としているのはポバティリダクション(貧困削減)だ。英国のように方向転換しないといけない」と好き勝手話して帰っていったんですよ。その直後、英国の開発大臣の女性が日本を名指しこそしないものの、「ダイナソー(恐竜)のような援助をやっている国がある」と、すぐに日本と分かるようなスピーチをしたんです。日本のODAが世界一位だから、欧州人は腹立たしかったんでしょうね(笑)。私は、フィナンシャル・タイムズに反論を書きました。「貧困に直接働きかけるのも重要だが、経済の底上げをしないといけない。日本が支援してきた東南アジアは、経済が底上げされて貧困の数も減ってきた」と。そこは果てしない論争ではありますが。
思えば日本は70年代には、円借款をビジネスに使っているとたたかれた。欧州人は日本がトップだと気に入らないんです。でも、彼らは勝手なもので、中国が今、国益優先のハード、インフラ援助を激しくやっているのに文句を言わない。それどころか一帯一路に自分たちも入れてくださいというわけです。国は大きくて怖くないとたたかれるのだと学びました。
当時、女性の開発大臣の強者が英国、オランダ、ノルウェー、ドイツにいて、この4人が「援助を変えよう」と話し合った。これは日本の援助、これは英国の援助、とそんなことを言っている時代じゃない。皆がお金を出し合って協力すべきだと。
でも、日本国民の血税を使って病院を作り学校を作る以上、これは日本の援助だと分かるようにしないと国民は納得しないでしょう。欧州は社会民主党の政権が強かったですから、国旗を立てない援助、皆で協力してやる援助を進めていたけれど、日本は違う。日本人の気持ちが現地の人々に通じないと納得できない。カンボジアで日本が作った小学校の教室を見に行ったら、机のひとつひとつに日の丸がついていた。入った途端に日の丸がばーっと見えて、ちょっとやり過ぎでした(笑)。
國井 日本が目立たないといけないからやったんでしょうね。ワクチンのボトルの1本1本に日の丸をつけなきゃいけないのだろうかと悩んでいたコンサルの人々もいましたよ(笑)。米国も自分の国の援助だと主張しますよね。いまだに「USAID(米国国際開発庁)」の旗やロゴをいっぱいつけています。
飯村 国民の血税を使う以上、日本の援助、米国の援助というのは必ず出てくる。フランスだって旧植民地を中心に援助しているじゃないですか。北欧や英国があまりにうるさいので、米国とフランスに共同戦線をはろうと提案したんですが、彼らも事なかれ主義なのか、あまり動いてくれませんでした(笑)。
國井 米国は課題を絞って戦略的なアプローチをとっていますよね。米国のすごさは、良くも悪くも世界を変えるのは自分たちだと思っていて、ホワイトハウスも専門機関も真剣に世界の課題解決のために尽力していること。特に感染症対策や母子保健については、日本に比べてけた違いの予算を使い、それに従事する専門家の数や質も違います。
それにしても、飯村さんは対話を大切にしていましたね。国内外のNGOと対話して、NGOを支援する予算を増やしたり、米国のNGOと連携して日本に世界でしっかり貢献できるNGOを作ろうとしたり。
ただ、日本と米国のNGOは規模が全然違う。国際機関より多額の事業費をもつ米国のNGOもあります。アフリカでも、現地で実際に保健医療サービスを拡大し、保健医療人材を育てている主力はNGOというのをよく見かけます。特に米国のNGOは専門性も高く、エイズ対策、母子保健、薬剤管理、医療情報システムなど特化した分野の支援を、数十カ国以上で同時に展開するような団体もあります。今後、日本もNGOの実力を高めていく必要があるでしょう。
飯村 フランスにもNGOはありますが、米国とは規模が違います。米国のNGOは特にプロフェッショナルです。日本と違って、NGOが援助の中心的な実施機関になっているといえます。
國井 一方で、日本のNGOや大学・研究機関の人たちと話をすると、いろいろな不満を聞きます。日本政府の補助金や研究費が少なくなっているとか、いい人材がなかなか増えないとか。
でも、それは少し違うんじゃないかと思うことがあります。ミッションを達成するためなら、世界中からお金や人材を集めればいい。日本国内に限る必要はないんです。資金も人材も世界にはあります。
例えば私が働くGFでも世界のさまざまな大学・研究機関やNGO、コンサルタント会社などに資金を提供してさまざまな事業を行っています。世界銀行、ビル&メリンダ・ゲイツ財団、ロックフェラー財団など、ほかにもグローバルヘルス向上のため、NGOや大学・研究機関を通じて事業や調査を行っている組織はたくさんあります。ところが、日本の組織はそうした国際的な競争入札や募集にはあまり応募しない。人材も優秀で情熱あふれる若者が世界中にいます。日本国内だけでなく、もっと世界を見ればチャンスが広がります。グローバルな活動をするには、グローバルな視野でグローバルな資源を活用しなければ。
飯村 おっしゃる通り。日本の団体は国内完結型ですよね。
國井 いまだに親方日の丸の考えがあるんです。
飯村 日本の企業やNGOも、もっと世界銀行やADB(アジア開発銀行)のプロジェクトに出ていけばいいのにと思うんですが、プロジェクトペーパーを英語で書くのが煩わしいというんです。日本は世銀やADBにいっぱいお金を出しているのに、そのお金は他の国に使われて、日本のNGOは最初からくじけてしまっている。日本のこうした閉鎖的な体質を変えないとだめですね。
実はODAのプロジェクトでも、國井先生のように英語ができて英語で議論して見識を持っている人を育てなくてはいけないと、80年代後半に国際開発大学構想を提唱しました。大学はそう簡単に作れないので、結局、FASID(国際開発高等教育機構)という財団法人をつくりました。政府のお金も入れて、国際開発の分野を勉強したい若い人に奨学金を出していたんです。長いこと続ければ国際的な人材が育つだろうと思っていたのですが、民主党政権で仕分けされてしまいました。ただ、結果として名古屋大学など一部の大学に国際開発のコースができたのは、大きな成果かもしれません。
=(下)に続く