「千歳船橋の四天王」と呼ばれた元ヤン女子がLGBT問題に目覚めたワケ イジメ、喧嘩、芸能界の闇を見た先に…

元イエローキャブ社長・野田義治氏の秘蔵っ子としてグラビアアイドルとして活躍してきた渡辺万美(わたなべ・ばんび)さん。このほど、最新写真集『rabbit』をリリースした彼女が、「千歳船橋の四天王」と恐れられたヤンキー時代のトンデモエピソード、そして現在のLGBTに向けた取り組みへの思いを語った。

――学生時代は「千歳船橋の四天王」と呼ばれるほどの武闘派だったと聞きます。
そうですね(笑)。実家は下北沢で、そこから5駅の千歳船橋にある中学校に入学した頃から荒れ始めて……。いつしかそう呼ばれるようになっていました。
昔、有名な暴走族の本部が下北沢にあったらしいんですよ。だから、その暴走族のメンバーの息子や娘が下北沢や千歳船橋にけっこういて、そういう人たちとよくつるんでいました。
服装は上下にスウェットを着て、キティちゃんのサンダル。あとはマスクをつけて、いつでも先輩のバイクの後ろに乗れるようにヘルメットを持ち歩いていました。そのヘルメットもスプレーで着色して派手にして。「木刀」も持ち歩いていました。

――木刀……?
中学一年生の頃に剣道部に入ったときに、もらったんです。というか、剣道部に入ったのは木刀が欲しかったから。なんかカッコイイじゃないですか。
そんな感じだと、喧嘩上等の女の子にしょっちゅう絡まれるわけですよ。それで、闘うわけです(笑)。
――喧嘩にも木刀を使うんですか?
いや、喧嘩は素手での殴り合いですね。「喧嘩は素手でしろ」っていうのが、私と同じ「千歳船橋の四天王」の「モチヅキ姉妹」からの教えだったんです。
モチヅキ姉妹は千歳船橋では最強の女姉妹と言われていて、そのあたりを牛耳っていました。紫の特攻服とか着てて、めちゃくちゃ怖いんですけど、筋が通っていて、カッコ良かった。千歳船橋の夜の公園とかはほとんど、モチヅキ姉妹の縄張りでしたね。
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素手での殴り合いはところ構わずやっていました。一度、千歳船橋の駅で3人組の女子から絡まれとき、電車に乗ったあとも因縁をつけてきたので、小田急線の車内で3人相手に殴り合ったこともあります。相手は年上の高校生だったのですが、喧嘩が終わったあと、「お前は一人で立ち向かってきて凄い」と認めてくれたのを覚えています。
自分からもイキってる女とかを呼び出して、公園とかでよく喧嘩していました。

――“イキってる女”って具体的にどんな子なんでしょう。可愛い子とか、目立っている子とかですか?
スウェット着て、キティちゃんのサンダル履いている女です(笑)。
――なるほど(笑)。荒れてしまうきっかけはあったのでしょうか。
イジメですね。元々通っていた小学校は個性を重視する私立校だったんです。芸能人のお子さんも多く通っていて、私もピアスも開けたり、髪の毛を染めたり、本当に自由な校風でした。学年関係なく、人間関係もフランクで。
卒業後、千歳船橋にある区立の中学校に進んだのですが、髪の毛を少し染めてるぐらいで呼び出されたり、ピアスの穴も「ふさいでこい!」と言われたり。
「渡辺さん」って名字で呼ばれるのも、カルチャーショックでした。以前の学校では年上の人も下の名前で呼ぶような文化だったので、「○○先輩」とか、敬語を使うのに慣れていなくて、「生意気な奴」と目をつけられて。
上履きを隠されたり、黒板に「死ね!」って書かれたり、漫画みたいなイジメ方をされました。それで、他校で同様に浮いている子とつるむようになったんです。
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――芸能の世界に興味を持つようになったきっかけは?
先ほど話した「モチヅキ姉妹」からの影響が大きいですよね。モチヅキ姉妹は、実はいいとこの子で音楽にも詳しく、演劇とかもやっていて、文化的な教養がすごくあった。
だから、モチヅキ姉妹の公演を見に行ったりするうちに、演技の世界、特にミュージカルにどんどん興味を持ち始めたんです。それで中学生の頃から、ニューヨークのブロードウェイに憧れるようになりました。とにかく芸能の世界に入りたい、とオーディションを受けまくりました。

――その後、サンズエンターテインメントの野田義治さん(元イエローキャブ社長)に見出され、グラビアアイドルとしてご活躍されます。
グラビアの仕事には抵抗はなく、海外撮影とかもあったので楽しかったです。ただ、どうしてもニューヨークへの憧れが捨てきれず、演技の勉強をするために事務所を辞めてニューヨークにいきました。
帰国後は女優としての活動も広げて、朝ドラ『あまちゃん』や大河ドラマ『軍師官兵衛』にも出させていただきました。グラビアアイドルとしての活動も継続していたのですが、その頃、芸能界の汚いところに見てしまって。
当時は業界内で地位のある人に媚を売ったりして、仕事をとったりする子もいました。いわゆる枕(営業)みたいなものですよね。それに嫌気が差して1年ぐらい完全に休養した時期あったんです。その頃、また、ニューヨークに行きました。
渡辺万美さん
――それはまた、演技の勉強をするためですか?
いえ、2回目のニューヨークは自分探しの旅行という感じで。ただ、そのときにニューヨークで偶然、幼馴染のゲイの友達と再会したんです。彼に凹んでいた私を励ましてもらったりして……。
ニューヨークには日本人のゲイのコミュニティがあって、たくさんのゲイの方の話を聞きました。彼らは日本が生きづらくてニューヨークに来ているんです。「日本に帰ってこないの?」って聞くと「親にも言ってないし、日本じゃカミングアウトできないんだよね」、と。

彼らたちとの出会いがきっかけでLGBT(性的マイノリティ)の問題に関心を持つようになったんです。LGBT関連の本を読んだり、新宿二丁目にも行ったりして、勉強しました。
日本はまだ、性的マイノリティの方々にとっては生きづらい国です。だから、そういう人達のために、私にも何かできることはないか、と。
――それが、今のジェンダーフリーの下着ブランド「BushyPark」 のプロデュース活動に繋がっているわけですね。
はい。このブランドで性別に関係なく、どんな人にも似合う下着を作りたいと思っています。デザイナーはゲイの友達にやってもらっています。
LGBTのことを勉強して分かったのは、日本のLGBTカルチャーはすごく局地的だということ。それが、LGBTの方々の生きづらさに繋がってしまっている。私はそれを変えたくて、「BushyPark」を社会とLGBTの新しい接点にしたいと思っています。
――今後はどういう活動を考えているのですか?
私にとってはこのブランドはLGBTの社会問題にアプローチする手段の一つで、他にも色々とLGBTの抱える問題を解決できるような取り組みをやっていきたい。
万美さんがプロデュースする下着ブランド「Bushy Park」(画像:公式サイトより)
今、原宿にある「カワイイモンスターカフェ」という若者の文化を発信するコンセプトレストランがあるのですが、そこの運営の人と相談して、LGBTの文化を発信するイベントをできないかと考えています。
新宿二丁目などとは別に、原宿や渋谷などで若い人たちに、興味をもたせてあげることが大事。そこからLGBTへの理解が広がればいいなと思っています。
私自身の活動としてはグラビアは今後も続けていくので、そこもジェンダーフリーなグラビアというか、男性だけでなく、女性にも魅力的に思ってもらえる表現をしていきたいと思っています。

――最後に、ヤンキー時代と今の活動には大きな隔たりがあるように感じますが、ご自身ではどう思われますか?
荒れていたときが、無駄な時間だったとは思いません。私の知るヤンキーって誰に対しても平等だったんです。コソコソ陰湿なイジメをしたりはしない。お互いに、本当の自分をさらけ出して、ムカついたら、タイマン(笑)。
あの頃、自信を持って堂々と生きることの大切さを学びました。だから私はLGBTの人はもちろん、誰もが胸を張って生きていける社会を創っていきたいと思っているんです。
▼渡辺万美写真集『rabbit』発売中/写真:小林修士