【消えた核科学者 警察庁拉致関係リストの真実】#17
プルトニウム製造係長 竹村達也さん
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竹村達也はプルトニウム燃料部から技術部の検査課に異動した。1972年に失踪した竹村が動燃で過ごした最後の部署だ。
私が取材で訪れた技術部のOBは「竹村さんは自らいなくなった」と語った。水戸市内の古書店で、竹村の蔵書が見つかったという。身辺整理をしているということは、拉致されたわけではないということだ。
しかしプルトニウム燃料部に在籍し、箕輪寮にも入っていた竹村の元部下の証言は違う。「竹村さんは、動燃の独身寮『箕輪寮』の駐車場に愛車のカローラを置いたまま失踪した」と言った。その部下は車がカローラなのに、ナンバーが「3298」で「ミニクーパー」と読めることからよく覚えていたという。
ところが、技術部のOBは語った。
「その愛車っていうのは、気の合った職場のグループで共同出資して買った車なんだよね」
「今でいうカーシェアリングかな。当時はまだマイカーが高価で普及していなかった。一緒に乗る時もあれば、今日はオレに貸せやっていう感じで一人でドライブに行く時もある」
私には、竹村が職場の仲間とカーシェアリングをしていたというのは違和感があった。それまでプルトニウム燃料部での部下や同僚、母校の天王寺高校や大阪大学の同級生に取材してきたが、全ての人が「竹村は友達付き合いが乏しかった」と語ったからだ。
■仲間は労組の元委員長
だが技術部のOBは、竹村とカーシェアリングをしていた仲間の一人を具体的に挙げた。労働組合の委員長経験者で、コーラスが趣味。コーラスでは指揮者を務め社交的な人だったという。
竹村がカーシェアリングをしていたのなら、他の仲間が引き続き使っていただけで愛車を放置したままにしなければならない何らかの事情が発生したわけではない。
――ではなぜ失踪したのでしょう?
「竹村さんがいなくなったのは、ちょうど中国が核実験をやるようになった時期で、中国の核開発の手伝いをしに行ったんじゃないかというような噂が動燃の職員の中で立ったことはあった。でも何の証拠もないことで。北朝鮮の噂は出てこなかったなあ~。その頃はまだ日本とも仲が良かったし。北朝鮮は『地上の天国』だと在日朝鮮人が帰国運動をしていたような時代でしたから」
このOBは、それ以上は竹村のことは知らなかった。同じ技術部でも課が違った。
私は竹村が失踪する直前の技術部の職員名簿のうち、竹村と同じ検査課に在籍していた職員の住所を割り出した。仙台に向かった。=敬称略(つづく)
(渡辺周/「ワセダクロニクル」編集長)