沖縄戦などの犠牲者を悼む「慰霊の日」の23日、最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園には早朝から多くの遺族らが訪れた。「平和の礎(いしじ)」に刻まれた大切な家族や友人らの名前を指でなぞったり、手を合わせたりして、冥福を祈った。
那覇市の赤嶺和雄さん(76)は75年前の地上戦で父正昭さんと姉2人を失った。農家だった父は防衛隊として動員され、姉2人も旧日本軍の部隊の手伝いで家を離れた。赤嶺さんは当時1歳。「赤ちゃんを大事にしてな」。それが、父が母に贈った最後の言葉だったという。
母は戦後、女手一つで残った5人きょうだいを育ててくれた。生活は苦しく、赤嶺さんは「父がいないことを悲しむより、生きることに精いっぱいだった」と振り返る。毎年、慰霊の日には妻と「平和の礎」を訪れ、遺骨も見つからなかった父と姉の名前の前で手を合わせる。「父と姉の記憶がないことが今になって悲しい」と声を詰まらせた。
名護市の与那城(よなしろ)春子さん(89)は、サイパンで父やきょうだいをはじめ家族・親戚計11人を亡くした。平和の礎に刻まれた家族の名前を見て涙があふれ出し、「世界中の皆さん、二度と戦争は起こしてはいけません」と語りかけた。家族はサイパンの壕(ごう)の中で手投げ弾を爆発させ自決。与那城さんは怖くてとっさに横になり、母と2人だけ助かった。戦後75年たっても沖縄に米軍基地が集中する現実に「変わらないと駄目」と語った。
平和祈念公園の約4キロ西にある糸満市米須(こめす)の「魂魄(こんぱく)の塔」にも朝から遺族らが訪れた。塔は終戦直後の1946年2月、周辺で野ざらしになっていた犠牲者の遺骨を納めるために造られた。
那覇市の自営業の男性(77)は、遺骨が見つかっていない父と兄を思い、「子供も孫もみんな頑張っているよ。安らかに眠ってください」と心の中で語りかけて手を合わせた。「父も兄も無駄死にだった。沖縄は(本土を守るための)『捨て石』にされたという悔しい思いでいっぱいだ。翁長雄志(おながたけし)前知事が言っていたように、沖縄の人たちが一つになってこれからの平和をつくっていけるようになってほしい」と語った。【竹内望、飯田憲、遠藤孝康】