炎の中、逃げ惑った13歳の夜 語り続ける88歳元教諭 堺大空襲75年

太平洋戦争が終結する約1カ月前の1945年7月10日未明、大阪・堺の街は米軍の焼夷(しょうい)弾攻撃で焼き尽くされた。死者1860人、全焼家屋約1万8000棟を数えた「堺大空襲」。猛火の中を逃げ惑い、伯母家族4人を失った元小学教諭、今村早智子さん(88)=大阪府河内長野市=は75年前を振り返り「戦争のない世の中をつくるため、炎をくぐったあの夜の体験を伝え続けたい」と話す。
10日未明、堺市一の繁華街だった山之口商店街近くに住んでいた13歳の今村さんは、幼い弟らと家の床下に掘った防空壕(ごう)にいた。「シュー、シュー」。聞いたことのない異音に驚き外へ出ると、西の空が赤く染まり、爆撃機の影から光るものが次々と落下していた。
「空襲や、はよ逃げなあかん」。そう叫び、警防団活動で不在だった父を除く母子5人で、近くの開口(あぐち)神社の境内に逃げ込んだ。
炎に追われるように続々と集まる市民の頭上に、焼夷弾は降り注ぎ、神社の三重塔や本殿も焼け落ちた。母におんぶされた2歳の妹が「熱いよう、おうちに帰ろうよう」と泣き出した。いつの間にかふくらはぎをやけどしていた。
1時間半ほどして空襲はやみ、夜が明けた街は一面、焼け野原になっていた。自宅は跡形もなく、出がけに母が衣類をまとめて投げ込んだ井戸の場所も分からなくなっていた。
川に浮かぶ遺体「声も出ず」
午前、被害を免れた父の知人宅がある大浜海岸へ向かう途中、川にたくさんの遺体が浮かんでいるのを見た。鉄道のガード下には焦げた遺体が折り重なり、「あまりの恐ろしさに声も出なかった」。黙って父母に寄り添った。
南海・堺駅のそばでガラス店を営む伯母家族4人が、自宅の近くで亡くなっていたことが分かったのは、数日たってからだった。金歯でようやく伯父と確認できたほど、遺体の損傷は激しかったという。
戦後、地元の女学校を卒業し、小学校の教壇に立った。社会科の授業で、何もかもなくしたあの夜のことや、雑草入りのパンを食べた戦後の食糧難について話した。退職後も語り部として、堺市内の小中学校で体験を伝えている。原稿用紙の裏まで使って書いた感想文をもらうこともある。
「優しかった伯母の次男は、沖縄特攻から生還して家族の死を知り、自死を試みた。30年ほど前に病死するまで、特攻の話はしなかった。戦争の悲惨さ、愚かさを知る人間の務めとして力の続く限り語りたい」【高田房二郎】