京都在住の女性(当時51歳)が安楽死を望み、SNSを通じて依頼した医師2人の手によって昨年11月に死を遂げたことが事件化した。実は、2018年4月、私はその女性からツイッターのアカウント宛に、メッセージをもらっていた。
<ALS患者です。発症して7年になります。体は動きません。食べることも話すこともできないけど、人工呼吸器は着けていません。視線入力のPCで書いてます。ディグニタスでの安楽死を受けたいと考えていますが、付添い人が必要です。付添い人が自殺幇助罪に問われるか?という問題にぶち当たっています。どうすればそれを判明できるか、何か助言を頂けますか?裁判を起こすしかないのでしょうか?>
なぜ私は彼女に返信しなかったか
私は、その半年前に世界6カ国の安楽死事情をルポした 『安楽死を遂げるまで』 を出版していた。文中にもあったスイスの自殺幇助団体「ディグニタス」をはじめとする外国の関連団体を取材するなかで、彼女のような神経難病患者が、スイスに渡って安楽死を実現したケースも紹介していた。この女性は、同じような最期を迎えたいと思ったのかもしれない。
今も、安楽死を望む人々から、頻繁にメッセージが届く。そこからは、さまざまな苦悩が読み取れるが、ほぼ全員が共通して望むのは「苦しまずに死ぬ」ことだ。そのための方法を知ろうとしている。なにも安楽死を望まずとも、緩和ケアによってかなりの部分で、「痛み」を解消できるのだが、日本ではそのあたりの情報が整理されていないのだろう。
私はこうした問い合わせに対して一切、返信をしないと決めている。この女性に対してもそうだった。
せっかくなので、この場を借りて明らかにしたいと思う。私が返信を控える理由は、何も関心がないからでも、自分勝手な行動を取っているからでもない。それは、今回のような事件が起きる可能性を常に孕んでいることはもちろん、一人の人生の航路が私の助言によってわずかでも変化してしまうことほど恐ろしいことはないからだ(その後、スイスで自殺幇助を遂げた日本人女性に同行取材し、 『安楽死を遂げた日本人』 という本にまとめたが、それは自らの力で自殺幇助団体に登録し、海を渡った稀有なケースだった。しかし、彼女に同行してよかったのかどうかは、今も自問自答している)。
今回の報道で、問い合わせをしてきた女性が安楽死を遂げたと聞いて、驚きを隠せなかった。おそらくツイッターを通じて私に連絡をとったように、逮捕された医師らにもSOSを発したのだろう。
スイスでは「自殺幇助」が認められているが……
日本と世界の安楽死をめぐる状況を整理したい。
大前提として、日本では安楽死は、法的に認められていない。
医師が患者から、安楽死を要求されたとして、それを実行すれば刑法199条の「殺人罪」が適用される。安楽死の協力者や仲介者も法に問われる。人を教唆、幇助して自殺させたり、嘱託を受けて殺したりした者を罰する刑法202条があるからだ。
だから、日本人が安楽死を実現するには、それが認められている海外に行くしかない。
京都の女性が当初、目指した「ディグニタス」のあるスイスでは、今回の事件のように、医師が直接、患者に致死薬を投与して死に至らせる「積極的安楽死」は違法だが、医師の介助によって患者自らが劇薬入りの点滴を体内に流し込む行為(医師による「自殺幇助」。本稿ではこれも広義の安楽死に含める)は認められている。現場を何度も目にしてきたが、患者は点滴開始後、20秒ほどで苦しまずに死ぬことができる。スイスでは、外国人がこうした自殺幇助団体を利用することが黙認されている。
だが現実問題、日本人がスイスに行くのは難しい。まず日本では、安楽死を目的に、患者が病院を離れることを医師は許可しないだろう。病院の制止をうまく切り抜けられたとしても、特に難病患者の場合、付添い人がいなければ、出国することが難しい。しかし、それを外部の人間が手助けするだけでも自殺幇助罪に当たる可能性がある。彼女はこの点を気にかけ、私に助言を求めてきたのだろう。
それは医療行為か、哲学的行為か
本人の明確な意思があり、安楽死を認めている国で実施するのであれば、その死に方自体に、私は反対したくない。人工呼吸器を付けて生活することを彼女は憂いていたという報道が伝わってきたが、それ自体にも、とやかく言うつもりはない。その判断は、彼女の人生観の延長であり、それは彼女の生き方の反映でもある。死にたいという気持ちも、彼女にしかわからない切実な理由があったのだと想像する。
だが、外部の人間がその死を手助けするのならば、最低限、彼女の人生を踏まえた上での行動でなければならない。安楽死が容認されるオランダでも、安楽死を施せるのは、患者の人生に少なからず接している「かかりつけ医」に限定される(例外もある)。今回でいえば、S N S上で知り合った医師で、しかも複数人が、女性に死を施したのは、やはり理解に苦しむ。
もちろん、私は事件の全容を知らないので、たしかなことは言えない。報道では、担当医は彼女の要求を退けたという。その医師が今、どこにいて何を思うのか、とても気になる。一方で見ず知らずの医師2人が、なぜこのような安楽死を遂行してしまったのか。それは金銭が絡んでいたからなのか、それとも逮捕も覚悟した上で、自らの「死の哲学」を実践したかったのか……。
安楽死を取材するたびに、深く悩むことになる。死を望む患者は、医師に安楽死効果を持つ劇薬を求める。だが、医師が家族ではない他人の人生の幕引きを決めることは、医療行為の範疇なのか。私には、哲学的行為に思えてならない。医師からしても、患者の人生の最終決定者となることは、相当の覚悟を持たないといけないだろう。
「死ななくて良かった」 ALS患者から届いた手紙
たとえ難病を患っていても、人間の気持ちは、時間とともに移ろうものだ。以前、スイスで安楽死を取材していた時、ある米国人女性が私に連絡をしてきたことがあった。彼女もALSを患い、安楽死を受ける直前だった。親に黙ってスイスに渡り、友人と山にこもって死の順番を待ち構えていたのだ。ここでも、私は無言を貫いた。
1年後のことだった。この女性の安否が気になり、彼女の安楽死を担当していたスイス人医師に話を聞くと、「条件不足だったので、一旦、国に帰ってもらうことにした」と言った。そして、こう付け加えた。「好きな人ができたみたいで、死ななくて良かったという手紙がしばらくしてから送られてきたのよ」。
ここにとても重要なことが隠されている。
いわゆる「難病患者」たちの人生は、周囲の人間が勝手に、憐れんだり、悲観したりする類のものではないということだ。たしかに生活する上での苦難は人より多いかもしれないが、それこそ医師や周囲の手助けを借りながら、健常者以上に幸せな生活を享受している例をいくらでも知っている。
本当にこの京都の女性には死することしか、正解はなかったのだろうか。2人の医師は、別の選択肢について女性とともに考えたのだろうか。致死薬を投与したことが、1人の人間の死をもたらしただけでなく、この病に対する負の意識を社会に植え付けてしまった罪に気付いているだろうか……。
私が何を問おうとも、患者本人はもはやこの世にいない。本人の願いが叶ったのだから、天国の彼女は幸せだったのだと、思うほかない。
最後にひとつだけ言及したい。安楽死を遂げた本人は幸せな最期を遂げたとしても、残された人たちは、患者が生前、抱いた思いを背負って生きなければならない。安楽死が認められた海外でさえ、その患者には本当に安楽死という道しかなかったのか、他の道を提示することができたのではないか、と家族は思い悩む。
本人が望もうとも、家族の合意がないまま、死を急ぐことは理想的ではない。ましてや医師がSNS上で計画し、死に至らせたことは、私は刑法に問われるべきものだと思っている。
今回のケースを「安楽死」と呼び、医師側の行為に正当性を見出そうとする人も出てくるだろう。だが安直に、日本で安楽死法制化の議論を始める前に、死を急ぐ社会の是非について、いま一度考える必要があるのではないだろうか。
(宮下 洋一)