「平和は当たり前のことじゃない」。75年前、広島に投下された原爆で被爆した岡辺好子さん(90)=兵庫県原爆被害者団体協議会理事長、宝塚市=は年を重ねるたび、その思いを強くしている。家族全員が被爆、父を亡くし、大やけどを負った母らとがれきと化した街を歩いた。約30年前から、被爆体験を語り、平和のありがたさを訴える。「生かされている間は精いっぱい、語り継ぐ責任がある」。そう決意している。
父亡くし母を看病
1945年8月6日午前8時15分、15歳の岡辺さんは広島市の自宅にいた。爆心地から約1・6キロの自宅はドーンという激しい破裂音とともに揺れ、体が上に突き上げられた。
製綱工場を経営する父と母、姉2人、妹との6人家族。岡辺さんは高等女学校4年生だったが、既に授業はなく、学徒動員で働いていた市内の鉄道局に向かう準備をしていた。父と母、上の姉は仕事などで外出していた。
周りの家屋は爆風でなぎ倒され、あちこちで火の手が上がっていた。崩れ落ちた自宅から2番目の姉、妹と抜け出してまもなく、大やけどを負った母がふらふらした足取りで帰ってきて、倒れた。
避難所に決められていた自宅から北の方向にある国民学校に向かった。歩けない母を、便所の戸板を担架代わりにして乗せ、2番目の姉が前を、岡辺さんが後ろを持ち、妹の手を引いた。道中、人の遺体や牛馬の死体をたくさん見た。あちこちで「助けて」「水をくれ」との声が聞こえた。
母が「私を置いていって」と言った。でも、見捨てることはできなかった。夜はじっと抱きしめて寝た。岡辺さんは「悲惨な体験でした。よく生きていられた」と振り返る。
3日がかりで学校に着いた。父も上の姉も大やけどを負い、講堂に先に担ぎ込まれて寝かされていた。父は高熱に苦しんで、「子供が気になる」とうめき声をあげ、18日に亡くなった。
体験、市内の小中学生に訴え
終戦後、被爆の影響で、しばしば体調を崩した。理不尽な差別にもたびたび遭い、縁談も破談になった。「生きるのに必死だった。今日があるなら、必ず明日があると思って過ごしてきた」
約30年前、勤めていた大阪府内のタクシー会社を退職し、宝塚市に転居した。「学校で被爆体験を話してみないか」と声をかけられたのはその頃だった。
「なぜ、つらい記憶を思い出さないといけないのか」。最初はちゅうちょしたが、「自分の体験が将来ある人のためになるなら」と引き受けた。市内の小中学生らを中心に応じ、年20回を超えた年も。「今の日本の平和は戦争での尊い犠牲があったからこそ。みんなが、悲惨な体験を繰り返したくないと努力してきた」。その気持ちを胸に、訴える。
しかし、新型コロナウイルス感染が拡大し、今春から話す機会が半年以上絶えた。「最近やっと、2、3校から声をかけてもらって、また話せるのが、うれしかった」と語る。
自分たちが過酷な被爆体験を実感を持って語ることができる最後の世代との自覚がある。体験を持ち、戦後を生き抜いてきた仲間たちは相次いで鬼籍に入っている。「被爆の事実を風化させてはいけない。やりきっていかなきゃと思っている」。その言葉に力はこもった。【土居和弘】