「人は互いに迷惑をかけあうもの」 慶大特任准教授・若新雄純さんに聞く「ウィズコロナ」の”許す”コミュニケーション論

テレワークやオンライン授業をはじめ、新型コロナウイルスの感染拡大は、コミュニケーションに変化をもたらしつつある。「ウィズコロナ」とも表現されるこれからの時代を、人は他者とどう関わっていくべきなのか。慶應義塾大学特任准教授などをつとめる若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)さんに聞いた。 若新さんは著書『創造的脱力 かたい社会に変化をつくる、ゆるいコミュニケーション論』(光文社新書)などで、人と人とが約束事や契約に縛られすぎないことで創造性を高める「ゆるい関係」を推奨している。(ライター・土井大輔) ●裁くことと許すこととは、セットであるべき ――仕事や生活においてオンラインでのやりとりが増える中、コミュニケーションの方法は、どう変わっていくのでしょうか? 僕は、オンラインであるかどうかという形式はあまり重要だと思わないんです。僕が関心あるのは、「許されないコミュニケーション」がこれ以上、当たり前にならないといいなということ。 ――「許されないコミュニケーション」とは、どういうものですか? 新型コロナの騒動では、いわゆる「自粛警察」が問題になりましたよね。(外出を自粛すべきだと他人を攻撃する)自粛警察みたいな人たちの「空回りした正義」は、何が問題かというと、たとえば国が運用している裁きのルールというのは、過ちを犯した人が反論できる機会を設けているし、ちゃんと「許し」があるじゃないですか。執行猶予があったり、決められた刑を終えたら、元通りとはいかないまでも、やり直すチャンスが与えられるし、人権もある程度は保障されています。 ところが、オンラインで横行しているコミュニケーションでは「問題がある」と指摘した人について検証して、捜査して、真偽を見極めてということをしない。仮に、過ちを犯していたとしても、その人がちゃんと復帰するところまで見越したうえで、ものごとが語られないんです。 それに素人には捜査の能力があるかどうかわからないから、冤罪を生みかねません。もうひとつは、その人の社会復帰まで考えているかっていうことが問題となります。裁くことと許すことは、セットであるべきだと僕は思っているので。 ――それらの問題を解決するには、どうすべきなのでしょうか? 僕は、「人は間違うものだ」という前提で、すべての人間は関わるべきだと思っています。「人は正しいものだ、間違わない」という前提の関係性や場が増えすぎているのかな、と。
テレワークやオンライン授業をはじめ、新型コロナウイルスの感染拡大は、コミュニケーションに変化をもたらしつつある。「ウィズコロナ」とも表現されるこれからの時代を、人は他者とどう関わっていくべきなのか。慶應義塾大学特任准教授などをつとめる若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)さんに聞いた。
若新さんは著書『創造的脱力 かたい社会に変化をつくる、ゆるいコミュニケーション論』(光文社新書)などで、人と人とが約束事や契約に縛られすぎないことで創造性を高める「ゆるい関係」を推奨している。(ライター・土井大輔)
――仕事や生活においてオンラインでのやりとりが増える中、コミュニケーションの方法は、どう変わっていくのでしょうか?
僕は、オンラインであるかどうかという形式はあまり重要だと思わないんです。僕が関心あるのは、「許されないコミュニケーション」がこれ以上、当たり前にならないといいなということ。
――「許されないコミュニケーション」とは、どういうものですか?
新型コロナの騒動では、いわゆる「自粛警察」が問題になりましたよね。(外出を自粛すべきだと他人を攻撃する)自粛警察みたいな人たちの「空回りした正義」は、何が問題かというと、たとえば国が運用している裁きのルールというのは、過ちを犯した人が反論できる機会を設けているし、ちゃんと「許し」があるじゃないですか。執行猶予があったり、決められた刑を終えたら、元通りとはいかないまでも、やり直すチャンスが与えられるし、人権もある程度は保障されています。
ところが、オンラインで横行しているコミュニケーションでは「問題がある」と指摘した人について検証して、捜査して、真偽を見極めてということをしない。仮に、過ちを犯していたとしても、その人がちゃんと復帰するところまで見越したうえで、ものごとが語られないんです。
それに素人には捜査の能力があるかどうかわからないから、冤罪を生みかねません。もうひとつは、その人の社会復帰まで考えているかっていうことが問題となります。裁くことと許すことは、セットであるべきだと僕は思っているので。
――それらの問題を解決するには、どうすべきなのでしょうか?
僕は、「人は間違うものだ」という前提で、すべての人間は関わるべきだと思っています。「人は正しいものだ、間違わない」という前提の関係性や場が増えすぎているのかな、と。