セクハラ訴訟“福祉のドン”はなぜ権力を持てたのか? 背景にある「有力政治家」との蜜月

「タクシーではおしりの下に手」「深夜に執拗な性的メール」…“福祉業界のドン”のセクハラを被害女性が告発《メール入手》 から続く
今年11月13日、滋賀県にある社会福祉法人「グロー」理事長・北岡賢剛氏が、2人の女性から約4250万円の賠償を求めて訴訟を起こされた。原告は、北岡氏から性暴力を振るわれ、10年以上にわたりセクハラとパワハラの被害を受け続けたと告発したのだ。
今回の件が新聞各紙等で大きく報じられた理由のひとつには、北岡氏が障害者福祉の世界では「天皇」と呼ばれており、社会福祉の業界でその名前を知らない者はいない存在だということがある。そして、ハラスメントの被害の大きさもさることながら、加えて問題となったのは、なぜこれほど長い期間にわたるセクハラ・パワハラの事案が表に出てこなかったのかということだ。
どうして北岡氏は、福祉の世界でそれほどまでに圧倒的な権力を持つことができたのか。その背景には、有力政治家たちとの蜜月関係があった――。( #1 から続く)
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この日、質疑の最前線に居並ぶ厚生労働大臣ら大臣。
その背後に控える大勢の厚生労働官僚の事務方はいずれも神妙な面持ちだった。これからどんな質問が飛び出すのか、と戦々恐々としている風にも見えた。
厚労委員会で取り上げられた“福祉のドン”の疑惑
2020年11月27日。
とうとう衆議院厚生労働委員会で滋賀県近江八幡市の社会福祉法人「グロー」理事長・北岡氏による性暴力、セクハラ・パワハラの疑惑が取り上げられた。
原告の1人、北岡氏が理事を務めていた「愛成会」の幹部であるAさんはこう振り返る。
「仕事だから飲み会への参加は絶対、電話には3コール以内に出ろと罵倒されました。北岡の指示に従わないと会議に呼ばれなくなったり、意図的に仕事を外されました。組織内における北岡の権力は絶対で、それに刃向かうことなど考えられませんでした」
パワハラと並行して日常的なセクハラも続いたという。
仕事でタクシーに乗ると、北岡氏はAさんのおしりの下に手を突っ込んで触った。「やめてください」と拒絶すると、北岡氏はニヤニヤしながらその指を性的に動かす仕草をしてみせた。また、日常的に卑猥な言葉を綴ったセクハラメールも送られてきたという。

決定打となったのは、懇親会での“レイプ未遂”事件だ。
その晩、Aさんは仕事関係者数人との懇親会に呼び出された。普段はビールしか飲まないが、この日は北岡氏にビール以外のお酒をちゃんぽんで飲むように勧められ、泥酔。気づいたときには北岡氏の部屋のベッドに運ばれていたという。
生理中だったためレイプはかろうじて免れたと言うが、「自分に起きたことを受け止められず、誰にも言えなくて放心状態でした。屈辱的な気持ちになり、ずっと家の床に転がって泣き続けました」という彼女が心に負った傷はいかほどのものだっただろうか。
委員会とはいえ国政調査権をも有する国会で、この疑惑が審議される意味は大きい。本件が単なる一地方の社会福祉法人の代表の不祥事に止まらない根深さを物語っている。
質問に立った立憲民主党・尾辻かな子衆議院議員は、開口一番、田村憲久厚労大臣に対し「北岡氏をご存じか? そして、この報道をどう受けとめているか」と質した。
田村大臣は「まだ事実がよく分からない、明らかにされていない」からコメントは差し控えるとしながらも、一般論としてこう答弁した。
「一般的にセクハラという問題は、これはあってはならない話だと思います。雇用機会均等法で、やはり、こういうものは事業主がしっかり対応しなきゃならないというふうになっておるわけでありますが、この北岡さんですか、この人に関しては、私は、もう最近はずっとお会いしていませんが、以前は何回かお会いしたことがございます」
質問に立った尾辻議員は社会福祉士、介護福祉士の資格を有し、厚労行政に明るい。
北岡氏の疑惑を報道で知ったという。なぜ、委員会で取り上げるに至ったか話を聞いた。
「報道によると北岡さんは障害福祉の世界の功労者であることは間違いないと思います。けれども、どんな偉い立場の人、功績を残した人であれ、アカンものはアカンのです。一昨年も財務事務次官が、記者に対してセクシャルハラスメントをして辞任させられました。北岡さんは報道が事実だとすれは、それ以上のことをしていることになります。北岡さんは厚労省や内閣府の委員をされていたわけで、国の事業を主催した社会福祉法人の理事長です。だからこそ、説明責任があると思っています」
北岡氏の不可解な省庁関連職の“辞任”
質疑を通じて新たな事実も発覚した。北岡氏はこれまで厚労省、内閣府の委員という要職にあったが、いずれも辞任届が提出されたという。
特筆すべきは辞任の理由が不明確な点だ。尾辻氏の質問に対し、厚労省、内閣府は次のように回答している。
「北岡氏につきましては、社会保障審議会障害者部会の委員でございましたが、この度、所属団体を通じて委員の辞任届が提出されました。この辞任届を踏まえ、厚生労働省といたしましてはこれを受け入れることとし、昨日、11月26日付で委員の辞任となったということでございます」(赤澤公省厚労省障害保健福祉部長)
「北岡氏につきましては障害者政策委員会の委員を11月24日付で辞任されました。これは本人から辞任の申出があったことを受けた辞任ということであります。理由について具体的なところは承知しておりません」(難波康修内閣府男女共同参画局男女間暴力対策課長)
もし、何もやましいことがなければ、委員を辞職する必要はない。
仮に辞任するのであれば、その理由を明示できるはずだ。北岡氏、およびグローには質問状を送るなど再三にわたって連絡をとってきたが、12月6日時点で何の連絡もない。
“福祉のドン”の力の源泉はどこにあるのか?
それにしても、北岡氏が「障害福祉業界の天皇」の異名をとるまでになったその力の源泉は何なのだろうか?
その背景を知るべく北岡氏とも面識があるという、元厚労省関係者をたずねると、自身のスマホに収められた北岡氏と撮った一枚の写真に目を落としながら、厳しい表情でこう淡々と語り出した。
「北岡氏は障害者芸術の分野に影響力を持つ『共生社会の実現を目指す障害者の芸術文化振興議員連盟』に名を連ねる有力な政治家の力を使って、厚労省の人事と予算に影響力を持つようになったのです。会長は衛藤晟一元内閣府特命大臣が務めています。
宮仕えの官僚も、所詮、政治家の前では下僕です。政治家が動けばその意に沿わなければなりません。北岡氏の一報を聞いた時、まさか性暴力とは思いませんでしたが、よくよく考えると『さもありなん』という気持ちでした。彼の功績は厚労省内では知らぬ者はいませんが、同時に彼の権力への執念と異なる意見を持つ団体への排他性は有名でした。近年、障害者芸術の普及に努めてきた厚労省とすれば、北岡氏とその背後にいる政治家に振り回されてきた、というのが正直なところだったからです」
衛藤氏の関係者に北岡氏について取材することができた。
両者の関係が深くなったのは、2005年。衛藤氏が郵政民営化を掲げた小泉純一郎氏に反旗を翻し造反。直後の郵政解散選挙で自民党執行部から公認を取り消され、無所属で出馬するも落選した前後からだと説明する
「衛藤さんはその後、参議院に鞍替えして当選するのですが、その時、勝手連として衛藤氏の選挙活動を現場で支えたのが北岡さんでした。自ら衛藤さんの応援チラシを作り、部下を引き連れ手弁当で選挙の応援に駆けつけたのです。それから今日に至るまで、衛藤氏の選挙を3回、やはり勝手連として衛藤氏を支えています。北岡さんは男気があって、誰かのピンチには真っ先に手弁当で飛んできてくれる。義理人情に深い人です」
衛藤氏が後述するアメニティーフォーラムに初めて登壇したのが2004年。郵政解散選挙の前年のことだ。誰かのピンチには真っ先に飛んでゆく、という北岡氏のエピソードは、ある元グロー職員も証言している。
「誰かのピンチに飛んでゆく、と言いますが、それは自分の名誉と出世のために利用できる有力者に限ります。こうした利用できる人物の前では、北岡氏は人懐っこく、酒を飲んで、泣いて、笑って、夢を語る情熱家の一面を演じます。多くの人がその人間臭さに絆されるのです。北岡氏はとにかく人垂らしの名人でした」
自身が代表を務める団体から厚労省へ出向
「人事とカネ」そして「障害者芸術」という利権――。
ここでいう“人事”というのは、例えば社会福祉施策の向上を図るために、専門的および技術的な助言を行う専門官の任命などに代表される。過去の専門官には北岡氏の口利きで、北岡氏が率いるグローから専門官として厚労省に出向、現在は滋賀県庁障害福祉課に勤める人物も複数人いる。また、北岡氏と滋賀県のつながりは、北岡氏が県の外郭団体「滋賀県社会福祉事業団」にいた20年前から深く、人事交流という名目で県庁職員が北岡氏の関連団体に出向することもあった。
北岡氏は、自らに近い人物を同様の手段で厚労省に送り込み、自身の影響力を誇示するようになった。北岡氏は「オレは厚労省の人事を動かせる」と周囲に自慢げに話していたと複数の職員、元職員が証言している。それはまんざら嘘ではないのだろう。
その一方、北岡氏の障害福祉分野における“功績”は誰に聞いても間違いないとも言う。
かつて、障害者の福祉制度は「施設福祉」と言われていた。
1960年代、アメリカでは障害者を収容するための巨大な施設(コロニー)が建てられた。当時は障害者に対する偏見は凄まじく、福祉の発想そのものが「障害者は施設に収容すればいい」だった。それを突き崩していく動きが活発化し、「精神病院解体」などのスローガンが福祉業界で叫ばれるようになる。
その変革の流れは日本にも伝播し、70年代に入ると「地域に開かれた施設作り」を念頭に福祉の実践現場では「脱施設」の動きが始まる。これらの礎を作った先駆者を「第一世代」とすると、北岡氏らはその背中を追って、この「地域に開かれた施設」を日本に根付かせることに奔走した第二世代だ。
1993年、北岡氏は全国の障害者施設で働く職員のネットワーク作りを夢見て、仲間らと「へいももの会(平成桃太郎の会)」を発足。そして、翌年、全国に先駆けて障害児者を対象とする「24時間対応型在宅サービス」を立ち上げるのだった。
「アメニティーフォーラム」という祭典の存在
実はこの「へいももの会」を土台として、1999年に北岡氏らが創設した「全国地域生活支援ネットワーク(現NPO法人全国地域生活支援ネットワーク)」と、北岡氏のお膝元・滋賀県の琵琶湖を一望できるホテルを貸し切って毎年行われる障害福祉の祭典「アメニティーフォーラム」が、北岡氏が築き上げた帝国の力の源泉だと、前出の元厚労省関係者は断言する。
「当時、日本の障害者施策の主流は、国が予算を丸抱えして障害者の面倒は施設でみる、でした。その根底には『障害は治らない』という偏見もあったと思います。北岡氏には、この国の歪んだ施策を変えたいという強烈な熱意がありました。それが2006年、障害者自立支援法として日の目をみます。それまでの施設という概念を地域、そして社会に開くこと。ある意味で障害福祉分野の民営化でした。北岡氏らは障害者をひとりの人間として、地域で草の根の力で支え、共に生きていこうと訴えました。この理念自体は間違っていなかったと思います」
当時、北岡氏ら民間の動きを厚労省側で支えたのが、当時、社会・援護局障害保健福祉部企画課長で、後にえん罪事件を経て事務次官となった村木厚子氏だった。
この法律が実現したことで、障害福祉分野の施策は大きな転換点を迎える。その一方、後のセクハラ・パワハラ訴訟につながる北岡氏の“権力“も強大になっていった。( #3 に続く)
「北岡氏のセクハラやパワハラに異議を唱える人間は誰もいなかった」… “福祉のドン”を作った「福祉利権」人脈 へ続く
(中原 一歩)