東京都内屈指の高級住宅街として知られる大田区田園調布。「田園」という名前から、東急田園都市線の沿線かと思っていたが、走っているのは東急東横線・目黒線だ。田園調布の「田園」に込められた意味を探った。(浜名恵子)
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東急東横線・目黒線の田園調布駅で電車を降り、西口に向かうと、大正時代に建てられた欧風の駅舎を再現した建物がある。駅からはイチョウ並木のある道路が放射状に延び、住宅街が広がる。ただ、現在の風景が「田園」というほどのどかかというと、そこまでではない。
「このあたりは明治時代、『荏原郡調布村』と呼ばれた農村地帯で、当時の地図を見ると、雑木林や畑が広がっていました」。大田区立郷土博物館学芸員の築地貴久さん(42)は説明する。「調布」は奈良時代の税・租庸調の「調」や、多摩川で布をさらしていたことに由来するとされ、現在の「調布市」を始め、多摩川流域に見られる地名だ。「そこに大正時代、郊外型の『多摩川台住宅地』の開発・分譲が行われたことが、『田園調布』の始まりになったのです」。築地さんが教えてくれた。
街づくりを手がけたのは「田園都市株式会社」だった。東急グループの基になった会社で、現在の大岡山や洗足、田園調布の開発を行うため、1918年(大正7年)に設立された。発起人の筆頭は、「日本の資本主義の父」と呼ばれる実業家・渋沢栄一(1840~1931年)だった。
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渋沢の談話などをまとめた「青淵回顧録」(1927年、青淵回顧録刊行會)には、「人間は到底自然なしには生活出來るものではない」「私は東京が非常な勢ひを以て膨張して行くのを見るにつけても、我が國にも田園都市のやうなものを造つて、都會生活の
缺陥
( けっかん ) を幾分でも補ふ様にしたいものだと考へて居つた」とある。
当時、東京の中心部は急激な人口増加により、住環境が問題となっていた。田園都市株式会社は、ロンドンの過密化に対し英国人のエベネザー・ハワードが提唱した「田園都市」などに影響を受け、東京郊外に自然と調和した街づくりを目指した。理想的な住環境を実現するため、「他人の迷惑となるような建物を建造しないこと」「建物は3階以下」「建物敷地は宅地の5割以内」などを守るよう、土地の購入者に求めた。
洗足に続いて1923年に分譲が始まった多摩川台住宅地は、関東大震災で東京の中心部が大きな被害を受けたことが後押しとなり、人々が移り住んだ。
同年、住民の足となる目黒蒲田電鉄が開通。東急によると、多摩川台住宅地の駅は最初、地元の村名をとって「調布」とされた。しかし、国鉄との連結切符を売る際、同名の他の駅との重複を回避するため、3年後には田園都市の「田園」を冠した「田園調布」と改めた。
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田園都市株式会社は分譲を終え、目黒蒲田電鉄に吸収された。一方、初期の住民が組織した住民協議会は社団法人「田園調布会」となり、主体的に住環境の確保などを行ってきた。
しかし、高度経済成長期の地価の高騰や世代交代に伴う土地の細分化、住民の入れ替わりなどの課題に直面し、1982年、「創設者渋沢翁の掲げた街作りの精神と理想を知り、自治協同の伝統を受け継ぎましょう」など、7項目からなる「田園調布憲章」を制定。憲章具現化のため、家屋の高さ制限などを申し合わせた。
区も住民の要望を受け、91年以降、田園調布地区の一部で、1区画を約50坪以下に細分化して開発することなどを制限している。
田園調布会の奥野眞弘会長(75)は「街ができてからもうすぐ100年になるが、当時の先見性には驚かされる。この環境を未来にも残していけたら」と話している。