海から吹きつける冷たい風が肌を刺す。母校は北上川のそばにある。なおのこと、風は厳しい。子供たちの姿が見えないことも、寒さをつのらせる。この春、その小学校は東日本大震災の被害と、その教訓を後世に伝える「震災遺構」となる。
宮城県石巻市の大学生、永沼悠斗さん(26)。今月初め、震災で多くの犠牲者を出した石巻市立大川小学校を訪ねた。かつての学び舎を見つめると、10年前の弟の姿が浮かんだ。
自分も、2歳離れた妹も、大川小を卒業した。
弟=当時(8)=を含む児童74人、教職員10人が、ここで犠牲になった。弟は3人きょうだいの末っ子。兄の背中を追いかけ、地元チーム「大川マリンズ」で野球を始めた。スイングもキャッチボールも、かたちになってきた。
平成23年3月11日の記憶は鮮明だ。
湾に面した同市長面(ながつら)地区の自宅。高校の野球部の朝練に向かうとき、「おはよう」と弟から声をかけられた。それが、2人で交わした最後の会話になった。
内陸部にある高校の授業中、強い揺れが襲った。勤務先が近くにあった両親とは合流できた。
「学校にいたら、先生と避難しているはず」
弟を案じ、そう考えていた。しかし、大川小に子供を通わせている保護者から惨状を伝え聞いた。
ほどなくして仮設住宅での暮らしが始まった。野球部では主将になり、練習の日々を過ごした。家では弟の思い出話をしながら、家族で食卓を囲む。それでも心にもどかしさを抱えていた。
「人って、相手の顔を見ないと思い出せないこともある。震災前の家族の思い出も津波に流された。苦しかった」。震災と真正面から向き合えなかった。
大学生になり、「生かされた意味」を探し、さまざまなことに取り組んだ。語り部、防災学習の講師、津波で流された地区の再現模型づくり…。教員を目指して入った大学をやめ、防災や減災を学ぶために別の大学に入りなおした。突き動かしたのは「人生最大の後悔」だった。
震災の2日前。大きな地震があった。長面の砂浜で野球のトレーニングをしていたときだった。
「津波」。直感的に走って逃げた。結局、津波は来なかったが、あの時、その話を家族としていたら-。「少なくとも家族は助かったかもしれない」。今でも、思うときがある。
もう、そんな経験は誰にもしてほしくない。
「震災を知ることができる受け皿があることは重要。震災の事実を知ることが災害時の判断、勇気、行動につながる」
この春、大学を卒業する。社会人になっても、震災を伝えたい。
「語り部などの伝承活動に、空白の年代があってはいけない。親から子へ、子から孫へ、伝えていく。その一つの役割を担うのが自分の年代。やり残すことがないようにしたい」
(塔野岡剛)