富山市のフリーカメラマン、石原壮一郎さん(24)にとって、2011年3月11日の東日本大震災は、自ら生きる道を見定める転機となった出来事だ。学校になじめず自宅に閉じこもっていたあの日、自宅のテレビに映し出された津波の映像をどこか遠い外国のように思っていた。ボランティアとして東北の被災地へ10年間、足を運び続けるうち、「人のために生きたい」と思い至った。今は東北で知り合った人々との交流を映像に残し、富山から震災を語り継ぐ決意を新たにしている。
震災当時は富山市の中学2年。しかし家庭では親に反抗し、学校の人間関係もうまくいかず、不登校だった。10年前の午後2時46分、自宅でテレビを見ていた時、大きく長い揺れを感じた。画面はヘリコプターから撮影された被災地の映像に切り替わった。真っ黒い津波が仙台平野を襲い、空港や車などが次々と飲み込まれる様子に衝撃を受けた。「自分が住む国で、こんなことが起こるのか」。画面にくぎ付けとなり、声にならなかった。
発災直後、地元の知人に被災地ボランティアに誘われたが、当時は引きこもる自分を悲観するだけで頭がいっぱい。興味は持てず、断った。その後も声を掛けられたが「なんで自分が」と反発。しかし「1回行ったら、周りは何も言わなくなるだろう」と参加を決め、震災翌月の11年4月、宮城県石巻市に初めて足を踏み入れた。
街は津波で家の上に船が乗っていたり、車が窓に突き刺さっているなど、ほぼ壊滅状態。訪れた避難所では、家族も財産も失い「自分も流されてしまえばよかった」と悩み苦しむ女性の言葉に耳を傾けた。あまりの惨状に反応できず、掛ける言葉も見つからなかったが、「被災者の力になりたい」という思いが芽生え始めた。
その後、毎週末のように、石巻市や南三陸町へ通って、炊き出しやフリーマーケットなどの手伝いに汗を流した。南三陸では住民とも顔なじみとなり、いつしか親しみを込め「壮一郎」「壮ちゃん」と名前で呼ばれるようになった。人の役に立つ喜びを感じ、「また来たいな」と初めて思った。
周囲に閉ざした心が徐々に解きほぐされ、富山で学業に復帰。趣味のカメラを生かした撮影のアルバイトを経て、18年にフリーカメラマンとして独立。映像制作を本格的に学ぼうと米国に1年半留学し、20年12月に帰国した。
「東北に育てられた」関わり続ける決意
「壮一郎とこういう話をする時がくるとは思わなかった」。3月上旬、久々に南三陸町を訪ねた石原さんを目を細めながら迎えたのは、地元で漁業を営む阿部実さん(57)。震災直後に知り合い、父のように親しく付き合ってきた。漁業を再開した阿部さんの様子を映像に残すため、漁船に乗せてもらい、養殖ワカメの手入れ作業に同行。ドローンも使い、津波で大きな被害を受けた地元、志津川湾の現状も取材した。
海での作業を終えて漁港に戻ると、石原さんは阿部さんの自宅そばの漁具倉庫で10年を振り返るインタビューのため、向かい合った。阿部さんは当時を思い返し、静かに語り始めた。
大きな揺れを感じると、すぐ漁船に乗り込み、津波の被害から船を守ろうと全速力で沖へ逃げたこと。船上の無線機から聞こえる「4階建ての志津川病院が波に沈んだ」「警察署が水の中だ」との声に耳を疑ったこと。そして数日が過ぎても、家族を泣きながら探す人々の姿が絶えず「地獄絵図だった」と。見たまま、ありのままを石原さんに伝えた。
「被災地には10年の区切りはない。道路も海岸線もまだ元には戻らない」と現状を語る阿部さんは「これからは津波への心構えを発信する町であってほしい」と願う。「次に津波が来た時には1人も死者が出て欲しくない」と切に願うからだ。石原さんはカメラ越しに、阿部さんの話に耳を傾けていた。
何もかも悲観するように、家に閉じこもっていた10年前を振り返り「僕は東北に育てられた」と言い切る石原さん。南三陸の人々とのつながりを忘れず、ずっと関わり続ける決意だ。
石原さんが制作したドキュメンタリー映像の要約版は11日、富山市の復興支援団体「ふっこうのおと」が富山駅で開催したイベントで初上映。完全版は4月末にウェブで公開する予定という。【砂押健太】