「わきまえない障がい者」を叩く人たちが抱く「自由への恐怖」

2021年4月4日、車いすユーザーでコラムニストの伊是名夏子が、自身のブログで「JRで車いすは乗車拒否されました」という記事を投稿した。家族旅行の際、目的地の来宮駅はエレベーター設備がない無人駅であるため、車いす対応を小田原駅で要請したところ拒否されたという内容で、JRのバリアフリー問題を訴える主旨だった。

しかしこの記事は、ネットにおいて「炎上」した。「出発前に問い合わせすべきだった」「感謝の気持ちが足りない」「障碍者も譲歩すべきだ」「こんな強硬手段を使ったところで何も改善されない」「駅員がかわいそう」等々。中には「全ての駅をバリアフリー対応しなければならないとしたら無人駅は廃駅になるがそれでいいのか」といった言いがかりに近いものもあり、しかもその知性の欠けた主張をしたのが大学教員だというから、本当に嘆かわしいものだ。

こうした批判に対する具体的な反論は、伊是名自身の4月7日の記事を含め様々な方面から行われているので、それに付け加えることはない。今回の「炎上」事件は、日本社会の「わきまえない障碍者」に対する攻撃性を強く明らかにしたといえるだろう。

◆バリアフリーは「恩恵」ではない

一般論として、公共施設のバリアフリー化を進めるべきだという意見に反対する者は少ない。しかし、公共施設のバリアフリー化はなされて当然だという主張がなされると、とたんに反発の声が大きくなる。それは、障碍者のためのバリアフリーは「恩恵」であって、障碍者は感謝すべきだし、社会的リソースの余裕度に応じて後回しにされても仕方がないと広く思われているからだ。

健常者は配慮の必要がない存在、障碍者は配慮しなければならない存在、と一般的に思われているが、これは間違いだ。筆者が聞いた中で一番腑に落ちた説明をここで記述すると、たとえば二階建ての建物があったとする。仮に舞空術を身に着けた人間がいたとすれば、その人にとっては二階に上がるためには一階の天井に穴が一つ空いていればよい。しかし大多数の人間は空が飛べないので、わざわざ一階のスペースを潰し、コストをかけて階段を設置する。二足歩行が可能な人間にとってみれば、階段によって一階と二階のバリアは解消されたことになる。

しかし階段を使えない車いすユーザーにとっては、一階と二階のバリアが残ったままであり、不公平だ。このように考えると、健常者とは配慮された結果バリアが消失した者のことであり、障碍者とは配慮されていないためバリアが残っている状態の者のこととなる。人間は法の下に平等であるので、こうした不公平は人権問題となる。つまり、エレベーター設置などのバリアフリーは特別な「恩恵」ではなく、実施されて当然の政策なのだ。

常日頃から感謝することを強いられていることに疲れた障碍者を「感謝するのは当然」とバッシングする人々のおかしさもここにある。社会生活の中でバリアなく生きるのは当然の権利なのだ。バリアフリーに感謝せよと主張する人々は、眼鏡で物を見たり、階段を上ったり、横断歩道を渡ったりしたときもその都度感謝して生活したほうがいい。そうしたものにいちいちありがとうと言っていないなら、それは自分が十分配慮されて生活していることに気づいていないだけなのだ。

◆障碍者への「妬み」

今回、JRのバリアフリー非対応を問題化した伊是名夏子に対して「駅員がかわいそう」「感謝が足りない」といった批判が向けられたことによって、「わきまえない障碍者」への憎悪感情が可視化された。こうした批判内容から透けてみえるのは、批判者の「自分だって我慢している」という意識だ。障碍者差別解消法に基づく車いすユーザーへの対応の負担が現場の労働者に丸投げされてしまうのであれば、それは会社側の責任だ。にもかかわらず、批判の声は障碍者側に集中してしまう。おそらくその理由は、「妬み」の感情によるものではないだろうか。自分たちがモノを言いたくても言えずに我慢しているのに、障碍者が自由にモノを言っているのが妬ましいのだ。

こうした「妬み」の感情は、障碍者だけではなく、日々、多くの社会的弱者に向けられている。自分たちは毎日汗水流して働いているのに、遊んで生活している(ようにみえる)生活保護受給者、公共の場を我が物顔で占有し、自由気ままに生活している(ようにみえる)「野宿者」などが、攻撃対象となる。

そもそも自分たちの労働に対して支払われるべき報酬が低すぎるのではという疑問は、ここでは生じない。欲望を抑圧しながら慎ましく生きることを強いられている現代日本の市民は、常に自分たちの正当性を証明しようとしている。そこで、既存の社会システムのルールを前提にしたうえで、自分たちに支払われるべきリソースを「不当にも」奪っていると想定される、社会の(奴隷)道徳に対して従順ならざる他者が必要とされるのだ。

以前記事で書いたテクノクラートとしての階級意識は、このような他者への攻撃性を強める。速やかにバリアフリーを拡充せよという障碍者や支援者の言っていることは「現場」の労働者の「実感」では「現実的」ではない。「あいつら」はそれをわかっていないが、自分たち「現場」の人間はよく分かっているので、障碍者ではなくJR職員のほうに自分は連帯する……というわけだ。

◆「自由」への恐怖

もう亡くなってしまった筆者の友人は、かつてこうした「社会」をわきまえていない者を攻撃する現象を「「自由」への恐怖」という言葉で表現した。私たちは、その内容に納得しようがしまいが既存の社会ルールに従い、いろいろなことに我慢しながら生きている。それは私たちがそのような訓練を受けて成長したからである以上に、何よりそれが私たちにとって「賢明」なことだと知っているからだ。

理不尽に対して無駄に1人だけ抵抗してみたところで、結局は無駄であり、自分が損するだけだということを私たちは知っている。日々コロナ患者が増えているのに、会社はリモートワークを許さず、満員電車での出勤を強いている。そもそも仕事をしたくない。会社に行きたくない。かといって会社を辞めてしまえば、それは自分の明日からの収入源が絶たれるだけなので「賢明」ではない。だから今日も会社に行く。

しかし、私たちには根源的な「自由」がある。いかに「賢明」な判断ではないと分かっていたとしても、私たちはそれをやろうと思えばできてしまうし、やってしまうかもしれない。サルトルがそれを「自由の刑」という言葉で表現したのは有名な話だ。崖の上にある岩は自ら崖の下に転がり落ちることはない。しかし崖の上に立つ人間は、自ら崖下にダイブする自由から逃れることはできない。だから人間は自由に恐怖する。

先ほど仕事に行った彼にも仕事を辞める自由から逃れることはできない。通勤途中でスマホを開けば、様々な「賢明」ではない人々の情報が載っている。アイスクリーム用の冷凍庫に入ったアルバイト。ゴミ箱に放り込んだ生魚を調理するアルバイト。マスクをしないで飛行機を止めたおじさん。学校を休んでデモ活動をするスウェーデンの環境活動家。文系の大学院に進学した人。危険な場所で取材を続けて軍事政権に捕まったジャーナリスト。エレベーターのない無人駅で降りようとする障碍者……。いくらこうはなるまいと彼がかたく決意しても、気がついたら次の駅で途中下車して公園に段ボールを敷いて一日中寝転んでいるかもしれない。それが人間は「自由」ということなのだ。

しかし、あらゆる人間が「自由」に振る舞ったら社会は成り立たない。だからこそ、このような振る舞いは過剰なまでに徹底的に叩かれる。だが社会を変革する契機は、この「賢明」ではない自由な行為からしか生まれないのもまた事実なのだ。

◆「賢明」さに欠けた行為のその先にあるもの

人間の根源的な「自由」の結果から生まれた行為の評価は、歴史によって下されるしかない。キリストもブッダも、その教えが世界宗教に発展していなかったら、自分の我儘で家族を捨てた迷惑な男にすぎなかったかもしれない。公民権運動が成功していなかったらローザ・パークスはただの「わきまえない黒人」だっただろう。

そして現在なされた「賢明」ではないが「自由」な行為についても同様に、未来の視点から考える必要がある。当たり前のようにゴミ箱の生魚を調理する未来や、疫病が蔓延しているのに誰もマスクをつけないのが当然の未来については、ちょっと想像したくはない。しかし、どの公共施設にも当たり前のようにバリアフリー設備が完備されている未来については、我々は想像することができる。その未来の視点に立つとき、どの車椅子ユーザーもバリアなく自由に行動できるようにするべき、という当たり前の主張をした人間に対して激しく反発する人々は、どのように映って見えるだろうか。

「わきまえない人間」が一人現れたとしても、世の中はただちによくはならない。バリアフリーが障碍者に対する「恩恵」であるという誤謬を社会が乗り越えて、エレベーターが全ての駅に設置されるようになるのは、当分先の話だろう。しかし、世の中が動き出さない限り、「わきまえない人間」は何度でも現れ出るだろう。

<文/藤崎剛人>

【藤崎剛人】

ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82