ダムが豪雨で決壊、114人犠牲 平和池水害から70年、「決して忘れてはいけない」

現在の京都府亀岡市を中心に114人が死亡した1951年7月の平和池水害から11日で70年を迎えた。豪雨の中、水害の2年前に完成したばかりの平和池ダムの決壊が被害を甚大にした。75人が犠牲になった同市篠町柏原(かせばら)では同日に法要が営まれ、水害を直接知る世代が少なくなり記憶の風化が懸念される中、遺族らは「水害の歴史を忘れない」との思いを胸に刻んだ。
■京都・亀岡に甚大な被害、山陰線も流出
平和池水害は、現在の亀岡市域が豪雨に見舞われ、平和池ダムのほか、下流の年谷川など各河川の堤防が決壊した。京都市などでも死者を出し、住宅被害も流失89戸、床上床下浸水1万5千戸に及び、当時の国鉄山陰線の線路も流失した。
ダムは下流の篠村柏原(現亀岡市篠町柏原)の住民が強く反対する中、亀岡町(現亀岡市)の強い要望を踏まえ、国が1947年に防災機能とかんがい機能を併せ持つため池としてモデル的に整備を決めた。京都府が設計、建設して49年11月に完成。土製で高さ約20メートル、幅約80メートル、貯水量約20万トンの規模だった。
■原因は、ダムの欠陥の可能性も
ダムの決壊原因について京都地検は水害約1カ月後に、不可抗力の天災による事故との見解を示し、刑事上の責任を問わない方針を決めたとされる。当時の農林省は、亀岡町が台風期前に池を空にする操作を適切にしなかったと「管理不十分」とした。
その後の訴訟で被災住民が「手抜き工事」「設計ミス」も原因と主張したが、国や府は認めなかった。しかし原因を調査した農林省職員が、平和池の増水した水を下流に放出する施設「余水吐(よすいばけ)」が特殊な構造のため排水が追い付かないダムの欠陥を認める趣旨を論文にまとめていたことが明らかになっている。
■今も続く慰霊祭、弟2人亡くした男性「決して忘れてはいけない」
亀岡市であった法要は平和池水害遺族会が毎年営んでいる。今年は70年の節目から柏原地区と合同で開き、遺族や地区の役員、地域住民ら約40人が参列した。梅雨の晴れ間の下、年谷川の決壊場所に建てられた慰霊塔前で午前9時から始まり、参列者は読経に合わせて焼香し黙とうをささげた。
小学4年生の時に被災し、小1と1歳の弟2人を亡くした松原栄一さん(79)は法要後、「ずいぶん日がたったが、決して忘れてはいけない」と語った。松原さんは学校にいて無事だったが、自宅のあった柏原は鉄砲水にのまれほぼ更地の状態になっていた。心細さを募らせながら、1人で建物ごと流された家族の行方を訪ね歩いた。桂川の下流で保津川下りの船頭に救出された両親とは再会できたが、幼い弟たちは朝に別れたきりとなった。
■「住んでいる地域の危険、認識して」
静岡県熱海市の大規模土石流など各地で頻発する災害について「実際に遭遇しないと危機意識は生まれないが、住んでいる地域でどんな場所の何が危険なのかを認識しておく必要がある」と強く訴えた。
10日には、21人が亡くなった亀岡市上矢田町でも慰霊祭があった。