「首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ」吉田茂が文藝春秋のインタビューで”愚痴った”真意

※本稿は、福田智弘『人間愚痴大全』(小学館集英社プロダクション)の一部を再編集したものです。
首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ
吉田茂(政治家)
吉田茂といえば、戦後復興期に5次にわたって首相を務めた人物である。在任中には日本国憲法の制定やサンフランシスコ講和条約の締結、主権回復などが行われた。戦後、日本を新たに生まれ変わらせた政治家といっても間違いではないだろう。
その吉田が、政界引退後、84歳の年に文藝春秋のインタビューを受けて
「首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ」
と語っている。もちろん、自身長く首相を務めた人物であるから、かなり自嘲気味の愚痴である。
このセリフは、文藝春秋の人が、元首相同士の対談を持ちかけた際の一言である。どうして「首相なんてバカな奴がやる」ものだといったかというと、
「首相に就任するや否や、新聞雑誌なんかの悪口が始まって、何かといえば、悪口ばかりですからね、この世にこんな大バカはないように書かれます」
と、首相がマスコミに叩かれてばかりの損な商売だと告げるとともに、首相を「バカ」と報道し続けたマスコミに対し
「そんなバカばかり集まって話をしたって面白かろうはずがないじゃありませんか」
と、皮肉をいっているのだ。
一方で、同じインタビューの中では
「私は御承知のように、(首相には)なりたくってなったわけでない」
ともいっている。本当だろうか。
吉田は東大卒業後、外務省に入った。元は政治家というより外交官だった。駐英大使などを経験した「親英米派」で、戦時中、和平工作をしていたことなどから収監も経験している。
しかし、その経歴が、戦後、GHQの指導の下、民主化に走る日本の指導者としてはうってつけだった。終戦後、すぐに外相に就任。とはいえ、占領下にあった日本に本来の意味での「外交」など存在しない。この時期の外相の仕事とは、つまりはGHQとの「窓口」である。
終戦の翌年、戦後初の衆議院総選挙が行われ、第一党となった自由党総裁鳩山一郎が首相となる……はずだった。しかし、鳩山はGHQにより公職追放となってしまう。
その鳩山から直接、後を託されたのが吉田である。この時、彼は確かに一度断っている。予定外のことでもあったろうし、自由党は第一党といっても過半数には及ばない少数与党だった。
とはいえ、厳しい現況下、GHQにも顔が利く吉田の首相就任は絶対に必要だった。結局、第二党の進歩党も連立に参加して吉田内閣が発足した。以来日本を長年率いていくことになる。
このインタビューの5年後に逝去した吉田茂。「バカな奴」と自重した男の葬儀は、国葬となった。
俺の人生は苦境の連続だよ
エディソン(発明家)
「発明王」として知られているエディソン。蓄音機、電信機、電話機、白熱電球、アルカリ蓄電池など数々のものを発明、改良し、人類の生活を大きく変えていった偉人である。
エディソンが生涯で取得した特許は1300以上という。最初の特許取得が22歳の時であるから、それから亡くなるまでの62年間、平均で毎年約21件、毎月2件近くの特許をとり続けた計算になる。まさに「発明王」と呼ばれるのにふさわしい人物だといえよう。
そんな彼が56歳の年に、入社したての人物に
「俺の人生は苦境の連続だよ」
と語っていたという。華やかに思えるエディソンの人生は、本当に「苦境の連続」だったのだろうか。
エディソンが正規の学校教育をほとんど受けておらず、小学校は3カ月で退学した、というのは有名な話だ。
「1+1はなぜ2になるの?」
そんなごく基本的なことに「なぜ?」「なぜ?」と疑問を投げかけ続けたことが原因だったともいわれる。
その後、母からの教えと独学で学び、12歳の時には鉄道内で新聞を売る仕事をした。その列車内で実験室をつくったのだが、誤って爆発事故を起こして車掌に殴られ、耳に障害を負ったという逸話もある。これにより、のちに蓄音機などの発明の際、不自由することになる。
エディソンの最初の発明は「電気投票記録機」だったが、これは需要がなくまったく売れなかった。
「発明王」となってからも苦境は続いた。電気自動車も発明したが、コスパが悪く売れなかった。ヘリコプターも発明しようとしたが、途中で爆発事故を起こし、開発をあきらめざるを得なくなってしまったという。
特許はたくさんとったが、その分それに絡む訴訟も多かった。エディソンのことを「訴訟王」と呼ぶ人もいるくらいだ。訴訟には勝ったが、多額の費用がかかってしまったがために会社を追われる事態になったこともある。
9つも若い技師と送電方法で争い、露骨な非難合戦を展開した挙句、結局敗れるという事件もあった。
他にも発明、訴訟、事業の成否などにかかる失敗や困難は数知れない。
プライベートにおいても、苦労は絶えなかった。24歳の時16歳の若い妻を娶ったのだが、彼女は29歳の若さで死去してしまったのだ。
こうして見ていくと、「苦境の連続」というのは、決して誇張とはいえないのではないかと思えてくる。
エディソン本人にしてみれば、
「人生は1%の幸福99%の苦境」
という気分だったのかもしれない。
また働かなくてはならない
アメリカの文豪ヘミングウェイが「すべてのアメリカの文学作品はそれに由来する」と評したのが、マーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』である。彼の作品には、独立宣言ののち、徐々に世界の大国へと移り変わりつつあった新大陸アメリカの夢と開拓者精神とが詰まっているといわれている。
1835年、彼が生まれた年は、70数年ぶりにハレー彗星が見られた年だ。まさに彗星のごとく文壇に登場するのを予言していたかのようである。
12歳の時に父を亡くした彼は、学校をやめ、印刷工場で働きはじめた。
その翌年、アメリカはメキシコからカリフォルニアを獲得。その地で金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こっている。西部開拓が盛んとなる頃、トウェインは、青年へと変わろうとしていた。
22歳の年に、彼は長年の夢だったミシシッピ川蒸気船の水先案内人となる。その時、たくさんの人々と出会い、人間を観察する目を養ったという。
1861年、南北戦争が起こると、蒸気船の仕事は停止となり、彼は2週間だけ従軍した。その後しばらく、鉱山を求めてさまよう暮らしをした後、新聞記者となる。ここで彼は「航行安全水域」という意味を持つ「マーク・トウェイン」の筆名を使いはじめる。水先案内人にはおなじみの用語である。
やがて30歳で出した『ジム・スマイリーとその跳ね蛙』が好評を博した後、『金メッキ時代』(共作、1873年)、『トム・ソーヤの冒険』(1876年)、『ハックルベリ・フィンの冒険』(1885年)などで大ヒットを飛ばし、アメリカを代表する作家となっていく。
この時期、アメリカでは大陸横断鉄道が開通(1869年)、ベルが電話機を(1876年)、エディソンが白熱電球を発明(1879年)するなどし、工業化が進展。著しい国力の発展が見られた時期である。マーク・トウェインの作品は、科学や経済の発展を謳歌していた時代のアメリカで広まっていったのだ。
しかし、50代になると、裕福だったはずの彼は、印刷機への投資の失敗などで多額の負債を抱えてしまう。順調だった人生が一気に暗転してしまった。
「また働かなくてはならない」
そう彼は、愚痴をいったという。そして、若くはない体に鞭を打って、講演や執筆などに再び精を出すことになる。
しかし、60代から70代にかけて、彼のまわりでは不幸が続いた。長女、妻、次女、三女を亡くし、彼の作品も徐々に厭世的なものが多くなる。
三女を亡くした翌年の1910年、トウェインは亡くなった。この年、さらなる発展を続けるアメリカの空には、75年ぶりにハレー彗星が輝いていた。
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(歴史・文学研究家 作家 福田 智弘)