空を覆わんばかりに乱舞するセグロアジサシを、男性が杖(つえ)でたたき落としている写真がある。1939(昭和14)年5月28日、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の北小島で撮影された。尖閣諸島が貴重な生態系の宝庫であったことをうかがわせる一枚だ。
尖閣諸島には、戦前まで日本人が居住した。無人島になった後も、戦後を含め学術調査団が何度も足を踏み入れた。至る所に日本人の血と汗がしみ込み、日本の濃厚な痕跡が残る。
中国は尖閣について、「古来、中国固有の領土だが、日本が盗んだ」と根拠不明で品性下劣な主張を繰り返すが、真実は一つしかない。尖閣諸島の歴史を多くの国民が改めて確認し、国際社会への発信を強化すべきだ。
前述の写真は、当時の石垣島測候所に勤務し、農林省南西諸島資源調査団に同行した正木任(つとむ)さん(当時31)がアルバムに貼った数枚のうちの1枚だ。
調査団は、尖閣諸島・魚釣島で、クバの葉を採取するため与那国島から渡ってきた男女と偶然出会った。皆で記念撮影した1枚もアルバムに残る。尖閣諸島が当時、与那国島民の生活圏に入っていたことが分かる。
正木さんは石垣島に戻った後、島の様子を詳しく記した報告書を新聞に掲載した。「昆虫地理学上から重要な役割の位置にあり、限りなく興味深い島」とつづった。この報告書も現存している。
なお、セグロアジサシはその後、卵の乱獲で減少したとされる。
正木さんは43(同18)年、与那国島測候所長に内定したが、赴任地に向かう船が米軍の攻撃に遭い死亡した。くしくも、船は尖閣諸島周辺海域を航行していたところだったという。
後日談がある。68(同43)年、正木さんの息子で、同じく石垣島測候所で勤務していた譲さんが、総理府地下資源予備調査に同行し、父に続いて尖閣諸島に上陸した。
魚釣島で、父の写真に写っていた鰹(かつお)節工場の水がめがそのまま残っているのを見つけ、思わず手を合わせた。譲さんは現在87歳。「感慨深かった」と当時を回顧してくれた。
日本は1895(明治28)年、尖閣諸島がどの国にも属していないことを確認したうえで、領土編入を閣議決定した。日本領となった始点も明確で、日本の説明は歴史的事実で裏付けられている。
尖閣史を専門とする石井望・長崎純心大准教授は、日中双方の史料を長年詳細に研究した結果「100対ゼロで日本が正しい。尖閣が中国の領土であったことを示す史料は一切ない」と断言する。
証拠では勝てないから、力ずくで奪う。これが中国の論理である。そこを理解したうえで、国民は侵奪者と向き合うべきだ。 (八重山日報社・編集主幹)