【よみがえる日英同盟】日露戦争の勝利に大きく貢献 フランスの参戦防ぎ、ロシア・バルチック艦隊を邪魔した英国

日英同盟の締結(1902=明治35=年)は、日本にとって極めて重要な出来事だった。とりわけ、日露戦争(04~05=同37~38=年)の勝利は、日英同盟に因るところが大きかった。もし日英同盟がなければ、日本がロシアに勝利することは難しかった。
日本の海軍力に期待を寄せていた英国は、日本の海軍力増強にあらゆる手を尽くして協力した。その結果、日露戦争戦前の日本海軍は約150隻もの艦艇を保有する大海軍に成長していたのである。
前回紹介したように日本海軍の主要艦艇のほとんどが英国製だった。ここで、英国出身の作家のC・W・ニコルさんから聞いた面白いエピソードを紹介しよう。
実は日露戦争前の英国は、日本向けに軍艦を建造するとき、できるだけ木材を使わなかった。一方、ロシアから受注した軍艦には高級感を出すために木材を多用した。当然、木材を多用した艦艇は被弾すれば燃えやすい。つまり英国は、あえてロシア向けには木材を使ったというのだ。
当時の日本海軍が使用した砲弾には、爆発力が高く燃えやすい下瀬火薬が使われていた。ロシア・バルチック艦隊の撃滅には、そんな日英の連携プレーもあったという。
日英同盟は締結当時、どちらかの国が敵対する1カ国と戦争状態に入った場合、もう一方の締結国は中立を保ち、他の国の参戦を防ぐ努力の義務があった。どちらかの国が2カ国以上と交戦となった場合、締結国は同盟国を助けて参戦することになっていた。
要するに、日本がロシアと2国間で戦争する場合、英国は中立を保ち、フランスやドイツが参戦することを防ぐ努力をしなければならなかった。フランスかドイツがロシアに肩入れして参戦してきた場合、英国は日本を助けて参戦する約束になっていたのだ。
また英国は、日露戦争で「戦闘」以外のあらゆる手段を使って日本を助けてくれた。例えば、英国は巧みな工作によって、ロシアが戦艦2隻と装甲巡洋艦2隻を購入するのを阻止している。さらに、極東のウラジオストクに向かったロシア・バルチック艦隊に対し、英国が支配していたスエズ運河の通過を認めず、植民地への寄港も拒否し、石炭の補給も断った。
日英同盟は、強大な海軍力を持つフランスの参戦も防いだ。
当時、ロシアとフランスの間には露仏同盟があったが、日英同盟があったため、フランスはロシアを助太刀できなかった。そして、英国は日露戦争開戦2カ月後、フランスと英仏協商を結んで、フランスを封じ込めた。
英国の嫌がらせにより、バルチック艦隊の航海は3カ月の予定が7カ月となり、ロシア海軍将兵の精神・肉体両面の疲労は頂点に達していった。その疲労困憊(こんぱい)したロシア艦隊を、士気高く戦意満々の日本の連合艦隊が対馬沖で迎え撃ったのである。
まさしく日本海海戦の大勝利は、日英同盟の見事な連携プレーによる成果だったといえよう。
■井上和彦(いのうえ・かずひこ) ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに執筆活動を行うほかテレビ番組のコメンテーターも務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」受賞。著書に、『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『日本が感謝された日英同盟』(同)=写真、『親日を巡る旅』(小学館)、『自衛隊さん ありがとう』(双葉社)など多数。