「核の傘から離脱する方向に」 長崎の81歳、ドイツ外相に託す思い

7月10日、長崎市の被爆者、田中重光さん(81)は長崎原爆資料館を訪れたドイツのベーアボック外相と向かい合った。北大西洋条約機構(NATO)加盟国のドイツは米国の「核の傘」の下にありながら、6月21~23日にウィーンで開かれた核兵器禁止条約の第1回締約国会議にオブザーバー参加。条約には加わらないものの「(条約批准国・地域との)建設的な対話に関与する」と強調した。
日独外相会談のため来日した41歳の外相は、被爆者団体「長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)」の会長として招かれた田中さんの目を真っすぐ見つめた。田中さんも応じるように被爆体験やその後の苦しみを語った。二度と被爆者を出してはならない。その思いが届くことを願って。
1945年8月9日、長崎の爆心地から北へ約6キロの旧時津村(現時津町)。庭先にいた当時4歳の田中さんは閃光(せんこう)に包まれた。ごう音と爆風が押し寄せ、急いで防空壕(ごう)へ駆け込んだ。外へ出ると自宅の畳や障子は吹き飛ばされ、窓ガラスは飛び散っていた。
佐世保の海兵団にいた父は翌日、長崎市内で救護活動に当たり、帰宅すると体のだるさなどを訴えた。母も時津村の国民学校で負傷者を手当てし、原爆投下の数日後には爆心地から約1キロの知人宅へ安否を確認しに行った。母は間もなく下痢や足の吹き出物に苦しみ、肝臓や甲状腺を患った。父は入退院を繰り返す母にいらだち、酒浸りになって暴力を振るった。そして12年後、肝臓がんで死亡した。
田中さんは弟と妹の高校卒業を見届け、29歳で被爆2世の妻と結婚。被爆の影響を心配したが、長女と長男は健康に育った。しかし、長女が出産した男の子は肺が圧迫された状態で生まれ、生後3日で死亡。田中さんの被爆が関係しているのか分かりようもないが、田中さんは「自分のせいか」と思い悩んだ。
ベーアボック外相は田中さんの言葉に耳を傾けていた。田中さんは外相に思いを託した。「核兵器をなくし、核の傘から離脱する方向に進んでほしい」。外相は資料館を後にする際、芳名録に“答え”を残した。「ここは核戦争の狂気、原爆がもたらした凄絶(せいぜつ)な苦しみを伝える場所だ。核兵器が存在する限り、このような凄惨(せいさん)な現実が再び起こる危険性がある。だからこそ、核兵器のない世界を実現するという私たちのコミットメントが弱まることはない」
ドイツからは2016年にもガウク大統領(当時)が資料館を訪れ、当時の長崎被災協会長、谷口稜曄(すみてる)さん(故人)と面会した。翻って日本は毎年8月、被爆者団体が首相に長崎の資料館訪問を求めているにもかかわらず、1984年に中曽根康弘氏が前身の施設を訪れたのを最後に実現していない。
8月1日には米ニューヨークで7年ぶりの核拡散防止条約(NPT)再検討会議が始まる。そこには核兵器禁止条約に加わっていない核保有5大国も、日本もドイツも参加する。田中さんは日本政府に注文をつける。「『唯一の被爆国』と言いながら何もしないのでは世界からの信頼を落とす。核保有国と非保有国の橋渡しをすると言っているのだから、核兵器禁止条約に署名・批准できなくても話し合いに参加したドイツのような姿勢が今こそ求められる」【高橋広之】