拉致風化に危機感 帰国20年の地村さん「記念日ではない」

北朝鮮による拉致被害者5人が帰国して20年となった15日、被害者の地村保志さん(67)が福井県小浜市で会見し、帰国後の20年間を振り返った。周囲への感謝を述べる一方、「拉致問題が解決したわけではなく節目、記念日ととらえることはできない」とも話し、拉致問題の早期解決を強く求めた。
北朝鮮に24年間、諦めも
地村さんは昭和53年7月7日、交際していた妻の富貴恵さん(67)とともに工作員によって北朝鮮に拉致され、そのまま北朝鮮で24年間を過ごした。
「帰国が20年前で、北朝鮮には24年間いた。北朝鮮での生活の方がまだ長いんだな、という思いだ。北朝鮮は、『拉致はでっち上げだ』と言っていたし、24年間、一向に外交問題にならなかった。10年、20年と時が過ぎ、『もうだめなんだな』という諦めがあった」と、海の向こうでの思いを吐露した。
転機が訪れたのは、平成14年9月17日の日朝首脳会談。金正日総書記が日本人拉致を認めて謝罪し、翌月15日、地村さんら5人の帰国がかなった。
「日本の状況を知らず、羽田空港で家族会が歓迎してくれて、全国放送で生中継されるというのは想像もしていなかった」
日本国内では被害者5人の姿が大々的に報じられたが、地村さんにとっては3人の子供たちを北朝鮮に残したままの帰国。「正直、飛行場に降りて親戚に会って、(北朝鮮に)帰るつもりだった」といい、「(子供たちが帰国するまで)1年7カ月ほどブランクがあり、子供を待ちわびる辛い時期だった」と述べた。
帰国後は社会復帰に向けた研修などをこなし、地元の小浜市役所で勤務した。
「生活はゼロからの始まりだった。大変不安であったのは事実だが日本政府、地元の皆さん、同級生の皆さんが支えてくれた。それが日本に永住して、子供たちを粘り強く待ち続けることにもつながった」と感謝を口にした。
高齢化、早く救出を
3人の子供は平成16年5月に帰国し、家族がそろっての生活が再開した。
とはいえ、北朝鮮で生まれた子供らにとって、言葉も文化も全く違う日本の環境。帰国から半年ほどで日本語を習得し、現在は独立したが、「日本語教育から始めて、日本に慣れて社会に進出するという過程を経なければならなかった」と明かす。
「子供たちが学校を卒業すると、地元の企業が手を差し伸べ、受け入れてくれた。子供たちはその期待を裏切らずに、今もその会社で勤めている。心から感謝している」と述べた。
一方、自身ら5人とその家族が帰国してから、大きな進展を見せていない拉致問題については強い危機感を示した。
拉致被害から数十年が過ぎ、帰国を待ちわびる家族の高齢化が進む。そうした中で、有本恵子さん(62)=拉致当時(23)=の母、嘉代子さんが令和2年2月に94歳で、横田めぐみさん(58)=同(13)=の父、滋さんが同年6月に87歳で相次いで死去。解決まで残された時間は長くない。
地村さんは「被害者自身が高齢化している。私がもう67歳で、北朝鮮に残されている人の中には私以上の(年齢の)人もいる。家族はもちろん、早く救出しないと生きたままの奪還は難しくなる」と懸念した。
その上で、「帰国して20年。なかなか北朝鮮との交渉は進展していない。水面下での交渉、あるいは実務者での交渉を進めてもらわないことには、口先ばかりで訴えても解決への道は開けない」と訴えた。
同級生の思いが力に
平成28年に小浜市役所を退職し、現在は講演などを通じ、拉致問題の解決に向けた活動を続けている。
小中学生への講演を行うことが多く、「私が帰国したときに生まれた子はもう20歳。だから今、学校に通っている子は当時を知らない」。講演で伝えているのは、「皆さんが大きくなってから解決しようと思っても手遅れで、今、解決しなければ悲しい歴史になってしまう」ということ。若い世代にはそういう思いを、これからもできる限り伝えていきたいという。
会見には、地村さんの同級生らでつくる「北朝鮮に拉致された日本人を救う福井の会」の森本信二会長も同席。森本さんは、帰国した地村さん夫妻との再会を待ちわび、抱きあって喜ぶ同級生もいた。「いまでもしっかり覚えているし、あの喜びを帰国を果たせていない被害者、ご家族にも、実感していただきたい。そのためにも頑張っていきたい」と力を込めた。
地村さんは「帰ってきてよかったなと思えたのは同級生がいたから。私一人では何もできない。本当にありがたいし、今後とも一緒になって協力してほしい」と話した。