「まるで中世の魔女狩り裁判だ!!」。
大阪地裁の大法廷に怒声が響く。腕を組みながらじっと言い渡しを聞いていた男は証言台から立ち上がり、鬼の形相で裁判長席をにらんで詰め寄った。
「私は無罪で、冤罪だ! こんな判決は粗悪な作文だ!!」
露わになった口元から大量に口角泡を飛ばしていた。男の名は奥野淳也被告(36)。新型コロナウイルス禍で必需品となったマスクの着用を拒否するトラブルを各地で起こした「元祖マスク拒否おじさん」である。
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マスク拒否で飛行機が2時間15分の大遅延
事件が起きたのは2020年9月、新型コロナによる全国一斉の緊急事態宣言を経て、多くの人が新たなウイルスの脅威にさらされていた時期のことだった。釧路発関西行きのピーチ・アビエーション機内で、客室乗務員がマスクを着けていない奥野被告に着用を求めたところ、「お願いは承りますが答えはノー」と被告は拒否。近くにいた乗客が「気持ち悪い」などと発言したことに「侮辱罪だ!」と大声を上げた。
被告は離陸後も執拗に抗議を続け、業務を妨げる行為をやめるよう命令書を交付しようとした客室乗務員の腕をねじり上げた。安全な運航が維持できないと判断した機長が途中の新潟空港に臨時着陸。被告は地上の係員に説得され、降機した。しかし、機体は約2時間15分遅延し、乗客約120人に影響が出た。
「マスク評論家」への華麗な転身
事件から5日後に被告は記者のリモート取材に応じている。
「マスクをしないと降ろすと言われ、根拠を尋ねただけ。一方的に悪者扱いされるのは心外だ。ただ、これほど大事になるとは思わなかった。今後司法の場で私の行為が運航の安全を阻害したと認められれば謝罪する」
他人に迷惑をかけずに解決する方法はなかったのかという質問には、伏し目がちに反省の色を示す場面もあった。
だが、その後様々なメディアで「マスク問題評論家」として取材を受けるようになった被告は、次第に態度を先鋭化させていく。「マスパセ(マスク未着用途中降機乗客)」と称する自身のツイッターで「『とりあえずマスク』となるのは思考停止」など強い言葉で、コロナへの不安な思いを抱える人々を批判する投稿を繰り返すようになったのである。
総勢17人もの証人尋問が開かれる大裁判に発展
被告は、21年1月にピーチ機の運航を妨害した航空法違反の罪などで大阪府警に逮捕。保釈された後の同年4月には旅行で訪れた千葉県館山市の食堂でマスク着用を拒否して他の客ともみ合いになり、駆けつけた千葉県警の警察官にも暴行を加え、威力業務妨害や公務執行妨害で再び逮捕されている。
今年5月から始まった公判では、裁判所は異例の厳戒態勢を敷いた。傍聴券の列に並ぶ人々に職員が「不織布マスクの着用をお願いします」と呼びかけ、裁判所内ではマスク着用を求めるプラカードを掲げた職員が、口元を1人ずつ確認。傍聴席は一席空けの間隔に制限され、証言台を囲うように高さ2メートルほどのアクリル板3枚が設置された。
裁判官、検察官、弁護人らがマスクをする法廷に、1人「ノーマスク」で登場した奥野被告。裁判長は「マスクが難しいのならフェースシールドの着用を検討いただきたい」と声をかけたが、「お上に強制されたくない」と真っ向から拒否した。
その後は、被告に殴られた警察官、館山市の食堂で被告に迫られた女性店員、ピーチの客室乗務員、最後には同社の運航管理責任者の最高幹部が出廷。否認事件では通常3~4人程度の証人が立つ地裁において、総勢17人もの証人尋問が開かれる大裁判に発展することになった。
ドラッグストアに長蛇の列を作ったマスクはまさに差別の象徴
法廷で被告は自身の病弱だった幼少期について語っていた。この頃の記憶が東京大学進学後、次第に公衆衛生と差別問題へと関心を寄せていく理由の一つとなったようだ。
「19世紀のヨーロッパではコレラの原因を下層労働者に押し付け、ナチスドイツは疾病を抱える人を収容所送りにしていました。人間は恐怖やヒステリック感情を前にしてしまうと、簡単に差別をしてしまうんです」
人々がわれ先に買い求め、ドラッグストアに長蛇の列を作ったマスクはまさに差別の象徴のように被告には映ったという。「同調圧力による強制はおかしい」そう思い、世間の流れにあらがうようになっていったのだと法廷で雄弁に語った。
被告は、一連のマスク拒否事件後に知り合った女性と結婚している。被告の主張に共感して結婚したという妻は、証人尋問で出廷して普段の被告の様子をこう語った。
「やさしく温厚で思いやりがあって、物事を深く最後まで観察し、記憶力もいいです。たかがマスクくらいでどうして。着用する、しないは個人の自由なのにヒステリックな周囲に夫は巻き込まれてしまいました」
検察官は実刑の必要性を強く訴え、懲役4年を求刑
こうした被告側の主張に検察側は、飲食店で騒動を起こしたことを認めて示談しようとしたこと、また呼吸器疾患を裏付ける診断書が証拠として提出されていないこと、保釈の際にマスクを着用する誓約書が提出されていることなどを突きつけた。被告は「お答えしません」と黙秘を徹底。事件の事実関係を尋ねる質問には「それはあなたの感想です」と正面から答えなかった。
尋問を終え、論告に立った検察官は声を張り上げ、被告を糾弾した。
「マスク不着用に名を借りた、気に入らない他人からの要請には一切応じないという特異な思考をもつ36歳の被告の『我欲』が一連の事件を引き起こした。日本各地で乱暴狼藉に及んだ被告が、社会の善良な人たちに再び被害を与えるのは必至だ」
こう実刑の必要性を強く訴え、懲役4年を求刑した。一方、弁護側は「マスクをしない少数者が悪者に仕立て上げられてしまった」と反論。無罪を主張した。
法廷はまるで舞台のように…
公判では一貫して事件はマスクを着用しない自分への差別と偏見によって起きたと主張した被告。その態度は公判の最後に裁判長から「最後に言いたいことは」と問われた時も変わらなかった。
「ここに1枚の絵があります」。そう言って取り出したのは「ルビンのつぼ」と呼ばれるだまし絵。
「つぼだと聞かされて見ればつぼに見え、向き合った2人の顔だと言われればそう見える。色眼鏡で人々が物を見てマスクを強制することがさまざまな軋轢(あつれき)を生んできました。
日本では、マスクは国民の間で広まった民間信仰『マスク真理教』です。公権力と結びついたとき、すさまじい社会的浸透力をもったのです。コロナ禍でマスクはマナーやモラルに高められました。マスクをしていない人の近くにいるだけで何らかの害にさらされるよう感じるのは過剰と言わざるを得ない」
立ち上がったまま裁判官席や検察官席、時には傍聴席を振り返りつつ語りかける。その姿は舞台上の俳優のようであった。
懲役2年、執行猶予4年の判決
「(マスクをしないことが)飛行機の着陸という重大判断につながったのであれば安全を害しているのはピーチ側です。マスクをしない人にレッテル貼りをして、他人を傷つけることは、絶対に許されない」
約30分間、独白を続けた被告は、設置されたアクリル板越しに裁判長を見つめてこう締めくくった。
「私は無罪です。飛行機でマスク着用に応じなかったことを大変誇りに思っています。人間性が失われていく時代に、小さな、しかし着実で大切な一歩でした。きっと遠くない将来にそう評される時が来るでしょう」
約7カ月に渡る異例の公判は12月14日判決を迎えた。大阪地裁の大寄淳裁判長はマスク着用と一連の事件との因果関係には一切触れずに、一連の事件の事実関係を全て認定。全面無罪を訴える被告の主張は一蹴し「自らの考えを押し通そうとする思いの強さに起因した犯行で、行いを省みる姿勢に乏しいことは明らか」として懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を下した。
執行猶予が付いた判決について、控訴するか問われると…
地裁前でマスク姿の報道各社に囲まれた奥野被告は裁判所への不満をぶちまけた。
「コロナの下で大衆感情に忖度したなんの論理もない判決でした。マスクをしていないことに対する偏見に裁判官自身がとらわれていた。判決にマスク着用の是非が触れられていないと言いますが、航空会社側のマスク着用は問題ではないという事実のすり替えに裁判所ものってしまったんです。こちらの主張が十分に酌まれていないことの証左です。これは誤った事実関係に基づいた判決。謝罪する気持ちも反省も一切ありません」
最後まで「ノーマスク」で怒りを露わにした被告。一方、客室乗務員への暴行の程度は大きくなく、臨時着陸する必要性は「不明」として、執行猶予が付いた判決について控訴するか問われると「弁護士と相談する」と言葉を濁した。
コロナ禍の象徴となったマスクに人生を狂わされた被告。彼が仮面(マスク)の呪縛から解き放たれ、再び一市民に戻れる日は来るのだろうか。
(助川 尭史/Webオリジナル(特集班))