鳥取連続不審死事件で広島拘置所に収監中の上田美由紀死刑囚が2023年1月14日、食べ物を喉に詰まらせ窒息死した。享年49。勤務先のスナックで知り合うなどした計6人の男性が不自然な死を遂げ、世を震撼させた疑惑&殺人事件の発覚から13年あまり。
一審で死刑判決を下されて以降、彼女は無罪を勝ち取ろうと自叙伝の出版を計画した。その執筆者として白羽の矢が立ったのが、当時取材で半年にわたり接見を繰り返していた私だった。そんなきっかけで「欲しいものリスト」が送られ、拘置所に届ける日々が始まった。そこで垣間見えたのは、美由紀の「生」への執着だった。
「林眞須美死刑囚のような本にしたい」
「無罪になる。ここを出て正月には家族と過ごせるわ」
2013年初夏。島根県松江市の郊外にある松江刑務所の面会室で、いつものように薄ピンクのTシャツにグレーのスポーツブラを着た美由紀は、根拠不明だが控訴審での勝機を感じ取り、息巻いていた。
「生まれた時から逮捕、拘留されている今までの全部を本にして出したい。暴力的ではない、真実の私という人間を書き上げてほしい」
こう言って、美由紀は私に執筆を依頼してきた。美由紀は和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚が出版した「死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら」のような本にしたいとも語っていた。
プリンセスプリンセスの「M」、小泉今日子の「木枯しに抱かれて」を歌っていたホステス時代
私は鳥取市の繁華街にある巨漢ホステスが売りのスナック「J」で、老骨にムチ打ってカウンターに立つママと知り合いだった。
ママは数年前にホステスを辞めた美由紀の逮捕を逆手に取り、一見の客にも「さとみちゃん(美由紀の源氏名)曲目リスト」と書かれたノートを見せびらかし、美由紀の十八番や思い出をネタにしては、客に1曲500円で歌わせていた。プリンセスプリンセスの「M」、小泉今日子の「木枯しに抱かれて」といった歌謡曲タイトルが羅列してあった。
ある時、この店の話をきっかけに美由紀に取材できないかとダメ元で申し込むと、面会がかなった。彼女と同年代でしかも子供の年齢も近い私は、週に1~2回、松江刑務所へ通うようになった。そのうち、自叙伝のゴーストライターとして白羽の矢が立ったのだ。
鳥取連続不審死事件とは
アクリル板越しに美由紀と過ごした夏から気付けば今年で10年も経つ。美由紀の死はどのメディアも一報のみであっさりとしたものだった。時が経つのは早いもので、もう昔の事件には何のバリューもないのだろう。
だが、事件発生当時は違った。あらゆるメディアが取材にしのぎを削り、中には「死体列島のモンスター」と表現した週刊誌もあるほど、報道は過熱を極めた(当時の美由紀は「報道されてる内容はウソ!」と語っていた)。
ここで事件を振り返っておきたい。2009年4月4日、鳥取県北栄町の海岸で約270万円の借金返済を求めていた交際相手のトラック運転手、矢部和実さん=当時(47)=に睡眠導入剤を飲ませた上で意識もうろうの状態にして海で溺死させた。
同年10月6日には鳥取市覚寺の摩尼川で電化製品の代金約123万円を請求していた電器店経営の円山秀樹さん=同(57)、同市吉成=に睡眠導入剤を飲ませ、溺死させた。
美由紀はほどなくこの2件の強盗殺人容疑で鳥取県警に逮捕された。このほか、06~09年にかけて除雪機や農機具、車などを詐取した6件の詐欺容疑と09年6月に民家へ侵入して現金35万円を盗んだ住居侵入、窃盗容疑も含まれていた。
周辺の男性が相次いで不審死。「モンスター」と呼ばれ…
立件はされなかったが、美由紀の交際相手や知人が相次いで不審死したことが発覚し、週刊誌に「モンスター」呼ばわりされるに至った。
まず、04年5月に読売新聞鳥取支局記者=当時(42)=が列車にひかれて死亡、07年8月に警備員=当時(27)=が日本海で死亡、08年2月には鳥取県警の刑事=当時(41)=が首をつった状態で死亡した。男たちはいずれも美由紀と交際していたとされる。
また、09年10月には金銭トラブルのあった近所の男性=当時(58)=が変死し、直前に美由紀が周辺に出入りしていたのを目撃されている。
強盗殺人で立件された矢部さん、円山さんの事件も含め、決定的な証拠は見つからず、睡眠導入剤の所持や行動歴、目撃情報といった間接証拠から裁判は進んだ。そして、12年12月、一審鳥取地裁の裁判員裁判で彼女は死刑判決を受ける。
一審はほぼ黙秘を貫いていたが、迫る二審に向けて美由紀は自らの証言で無罪を勝ち取ろうと法廷闘争での方針を変える決意をしたようだった。その一環で自叙伝の出版を思いついたのだろう。
しつけられた箸の持ち方に書写…「両親にはかわいがられて礼儀正しく育てられた」
松江刑務所での面会時間は1日1人のみ(弁護士は除く)、30分に限られていた。都合をつけて松江に通い、その生い立ちから聞き出していった。
美由紀は1973年に鳥取県倉吉市で生まれる。スイカの産地、大栄町(現北栄町)で両親と兄に愛されて育ったという。
「未熟児で生まれて、ぜんそくの持病があった。すごく優しい父母にかわいい娘だと言って育てられた。だから、あまり怒られた記憶がない。小学校の担任に竹刀でバッチンバッチンたたかれた時も、父は『女の子だから傷ついたらいかん』とかばってくれた。
背の高さはクラスで中くらいぐらい。跳び箱が苦手で体育が嫌いだった。国語や社会、道徳が好き。取り柄と言えば書写。金賞や特賞も取った」
確かに、後に渡された「欲しいものリスト」や自叙伝の前書きも達筆だった。「両親には箸も正しい持ち方をするように言われ、礼儀正しく育てられた」という。
自然の中で育ち、川に泳ぎに行くこともあったという。昆虫や動物、は虫類にも興味があったが、「小学校6年になるまでオタマジャクシがカエルになることを知らなかった」と笑っていた。
家では小型犬を飼い、バレー部にブラスバンド、水泳に柔道も…話から浮かび上がる「裕福な家庭」時代
家では小型犬の狆(チン)を飼っていたともいい、話からは裕福な家庭だったように受け取れた。また、ヘレン・ケラーの自伝を買ってもらって感銘を受け、ドラマはNHK朝の連続テレビ小説「おしん」を見て「この子のようになりたい」と思ったそうだ。
地元中学ではバレー部に入り、ブラスバンドのメンバーにもなってトランペットを吹いたり、ピアノ、アコーディオンを弾いた。さらに華道や水泳や柔道も習うというマルチな活動ぶり。
「音楽はカーペンターズが好きだった。鳥取にブルーハーツが来たとき、友達に誘われて行ったが、激しすぎて私だけ帰りたくなった」
「J」のママから見せてもらった曲目リストにもロック系はなく、癒やし系の曲を好んでいた。美由紀は「中学の頃から歌が好きで、よく家の中でも歌っていたな」と回想。好きな曲を聞くと、「いとしのエリー」「河内おとこ節」「珍島物語」「越冬つばめ」「川の流れのように」「あゝ無情」と、堰を切ったように語り出し、スナック「J」でもよく歌ったと語っていた。
最初の結婚は加勢大周似の夫と…
美由紀は自宅から離れた米子市内の高校に入学した。「通学で朝6時半頃、家を出ていた。あまりいい学校ではなかった」といい、後に中退している。その理由をはっきり語らなかったが「先輩とケンカして『パーマしている』『パーマを濡らしてみろ』とシバかれた」といい、高2の夏休み前に退学。その後は職安で見つけた全寮制の化粧品工場で勤務を始めた。
ほどなく、彼氏ができた。4つ年上の加勢大周似だったという。仕事は「国家公務員。いつ呼び出しがあるか分からない、りりしい仕事だった」と、ここでもはっきり教えてくれなかったが、交際2年で妊娠が発覚。親に反対されたが、20歳になっており自らの意思で結婚を決めた。
36時間におよぶ難産、相次ぐ入院、そして…
地元で結婚式を行い、鳥取で初めての出産をむかえた。36時間もかかる難産で「妊娠中毒症になった。後で帝王切開すればよかったと医者に言われた」と語っている。
数年後に生まれた2人目の長女は安産で、長男を預けるため「託児所のようなところに行くのが息抜きだった。分け隔てなく、子供は大好き」というが、やはり体調は思わしくなく、生む前に2度の入院を強いられたという。
生活拠点は大阪に移ったが、夫も育児に協力的だった。ただ、姑が子育てに口出しをしてきた。「私は放任主義だったが、姑は私の母とも対立していた。子供にいい服を着せていると、『先に旦那の服をよくすべきでしょう』と怒られた」。親戚もいない美由紀は孤立し、ノイローゼになった。そして「鳥取に住めんか?」と切り出したが、夫は仕事を取り、ここで1度目の離婚に至る。
「子供が抱きついてきた。疲れが吹き飛んだ。母親とはそんなものだと思った」
未就学児2人を連れて出戻った美由紀。元夫とは親権について話し合ったというが、「私の子だから親権は私」と譲らなかったという。周囲からは子供を施設に預けた方がいいのではないかと勧められたが、「私は絶対にできない」とかたくなに拒んだ。
実家の近くに住まいを構え、新聞広告で見つけた結婚情報センターで事務仕事に携わった。「通勤は汽車で、子供を迎えに行くと『〇〇ちゃん』と呼び、子供が『マミー』と抱きついてきた。それで疲れが吹き飛んだ。母親とはそんなものだと思った」と振り返り、美由紀の実母と協力して子育てに励んでいたという。
「堕ろしてくれ」に「赤ちゃんを見たいという母性本能が働いた。何考えているんだ、この野郎と…」
その後、勤務先の社長の知人だった14歳上の柳葉敏郎似の男性と交際し、妊娠が発覚する。相手の男性も子持ちだったといい、実母に結婚を反対された。また実母は「堕ろしてくれ」と懇願したというが、美由紀は「つわりがあるのは、赤ちゃんが元気だということだ。シングルマザーになってもいいので、赤ちゃんを見たいという母性本能が働いた。何考えているんだ、この野郎と思った」と当時の心境を語っている。
難産の末に次男を出産した。美由紀は「16歳のころから子だくさんになりたかった」といい、早産や妊娠中毒症で母体が危険になることもあったが、この男性と再婚した(その後離婚)。
引き抜かれたスナック「J」で…
時は流れ、5人目を産んだ後、鳥取市内でスナックに勤務していたが、不審死した男性たちとの接点となったスナック「J」に引き抜かれる。テレサ・テン、八代亜紀、Every Little Thingといった幅広い世代にウケる歌謡曲を歌い、「J」にやってくる生活保護の老人や市職員、警察官、自衛隊員たちを虜にしていった。
「私が風俗に勤めてたとか、2~3回来た客を寝取ったとか、全部ウソです。私がしたのは同伴(アフター)とカラオケとご飯を一緒に食べること」。特に美由紀は「J」で素行が悪かったとする報道に神経質だった。
「J」のママは「体で客を取れ!」と命じていたというが、美由紀はかたくなに拒否。「嫌だったのは高齢の客とムード歌謡を聴きながらチークタイムに入るのと、コーヒールンバにのせて踊らされたこと」と振り返っていた。また、つまみは高カロリーのものが多く、酒も一升瓶をラッパのみするほどだったという。
「血糖値が500もいった。肝臓や腎臓が追いつかずに40度の熱が出て、腹水がたまり死んでしまうかと思った。でも子供がいるから入院なんてできない」
美由紀は「J」を辞め、詐欺容疑の共犯として逮捕された自動車販売業の男と同棲をはじめる。08年7月のことだった。
どういう意図があるかは不明だが、美由紀は私に事件の真相を語ろうとはしなかった。唯一、「身長149センチの私が170センチもある男性を殺害したことになっている。起きられない人を段差のある海まで30メートルも運べるわけがない」とボヤいていたという私のメモがある。
「ママ、いまどこにいるの」
09年11月2日に逮捕された後、糖尿の気があった美由紀は症状が悪化。美由紀自身、この頃は「もう死んでもいい」と思っていたというが、接見した弁護士から「待ってる人がいるんじゃないのか」と諭され、子供たちの顔が浮かんでハッとしたという。
「ママ、ママって泣いていると思うよ。悲しいじゃないですか」。弁護士はこう美由紀に語りかけた。弁護士は面会で子供からの手紙を読み上げた。
「ママ、いまどこにいるの」
寂しい思いをする子供の声が手紙から伝わり、美由紀は「ビービー泣いた。つらかった。母親だから。きっと子供も泣いているはず。子供のために頑張らないけん」と生きる覚悟を決めたと語っていた。
その後、7カ月拘置された警察署から鳥取刑務所の拘置施設に移送された。家族との接見禁止が続き、再会を心待ちにしていたという。
上田美由紀が求めた「差し入れ本」リスト
松江刑務所の拘置施設では刑務官と相性が良く、待遇も悪くなかった。美由紀は熱心に六法全書を読み込み、法律の勉強にはまり込んでいた。
この時、美由紀が差し入れ本の「欲しいものリスト」を郵送してきたので、毎日、松江刑務所に通って規定の3冊ずつ差し入れていた。
人の本棚はその人の心情や人格を示すと思う。リストを見ると、死刑囚や冤罪のノンフィクション、戦時中の体験記といった鬼気迫る内容が多く、面会ではリラックスしている美由紀も独房では崖っぷちに立たされている心理を物語っていた。
控訴審が近づいたある日、美由紀は突然、「時間がない。早く出版しなければ。そのノートを全部、私に差し入れにしてよこしてよ」と憔悴した様子で迫ってきた。
なるほど。ここで遅筆の私を切って、だれか他の人に自叙伝を頼もうとしているという疑念が生まれた。
ここまで記述した美由紀とのやりとりはあくまで美由紀の主張でしかない。真実か否か、ある程度は裏付けが必要ではないか。ましてや強盗殺人だけでなく、複数の詐欺罪で有罪となった女だ。そもそも出版社も見つかっていない。間に合うわけないよ……。そう思った私は足が拘置所から遠ざかり、結果、音信不通になった。
上田美由紀の見せた“顔”
「欲しいものリスト」の本代を受け取らない私に、美由紀は「そういうわけにはいかない。あんたに迷惑かけられない。ちゃんと払うから」と気を遣ってくれた。次々と男たちを手にかけたという「モンスター」の側面を美由紀は私に一度も見せなかった。私は本当の美由紀と接していなかったのかもしれない。
ただ、度重なる難産や体調不良の中でも5人の子供を産み、また受験期には子供に家庭教師までつけていた。子供を育てる母として「生きなければならない」という意志だけは、疑いようのない真実だと確信している。
(安藤 華奈)