「プリンス・ヒロ受け入れの利益を強固にする」イギリス政府が若き天皇陛下の留学に秘めた“思惑”

〈常に青春の貴重な思い出として、時間、空間を超えて鮮やかによみがえってくる。〉今上陛下が回顧録『テムズとともに』(紀伊國屋書店)でご回想された楽しみに満ちたオックスフォード大留学時代。そこには英国政府のある思惑があった――。
徳本栄一郎氏の著書『 エンペラー・ファイル天皇三代の情報戦争 』より一部加筆して抜粋。今月ご成婚30周年を迎えた陛下が40年前、お過ごしになった英国での日々を辿る。(全2回の1回目/ 続き を読む)
◆◆◆
英国留学体験が若き日の今上天皇にもたらしたものとは
英国中南部のオックスフォードは、約40のカレッジから成る、世界有数の大学都市だ。その一つ、マートン・カレッジの礼拝堂は、古色蒼然としている。狭い入り口を潜るように入ると、パイプ・オルガン、古い木製の椅子が並び、ステンド・グラスと天井から吊り下げられた蝋燭がある。
この礼拝堂の建設が始まったのは、13世紀末、日本の鎌倉時代だった。パイプ・オルガンの一角は、15世紀半ば、室町時代に増築され、学生が食事をする隣のホールは、19世紀、明治維新後といった具合だ。建物によって、煉瓦の色も違い、ごつごつした壁もあれば、柔らかい色彩のものもある。
そして、今から40年前、この礼拝堂の椅子に、日本からのある留学生が座っていた。後年、彼は、回顧録で、「イギリスは古いものと新しいものが実にうまく同居している」と振り返った。
「私は、イギリスの人が常に長期的視点にたって物事を考えているように感じている。常に、差し迫ったもののみでなく、さらに先のことを考えながら、焦ることなく遂行していく国民性があるように感じる。これは、1つには家の建築方法と一脈通じるものがあるのではなかろうか。例えば、巨大な大聖堂にしても、それは数百年の歳月をかけて造られるものが多い。最初に石を積んだ石工は、その完成を見られない。しかし、彼らは完成を夢みて1つ1つ石を積んでいく」
この著者こそ「徳仁親王」、オックスフォードに留学した浩宮、令和の時代の天皇である。そして、英国の思い出を綴った回顧録が、今年4月復刊された「テムズとともに」(紀伊國屋書店)だった。
人は誰でも成長する過程で、その人生観に、決定的影響を与える体験をする。それは、書物や人との出会いだったりするが、後の行動をも左右する。天皇家とて、例外ではないはずだ。そして今上天皇にとって、それは、40年前の英国留学だったかもしれない。
銀行へ行き、クレジットカードで買物をして、友人とディスコへ
1983年6月、学習院大学を卒業した浩宮は、オックスフォード大学の留学に出発した。一般学生と寮生活をし、中世のテムズ川の水上交通史を学ぶためで、これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例だった。
「テムズとともに」の冒頭は、こういう文章で始まっている。
「私がオックスフォードに滞在したのは、1983年の6月末から85年の10月初旬にいたる2年4ヶ月間であった。その間、とても一口では表現できない数々の経験を積むことができた。私がオックスフォードを離れてからすでに7年を経過した今も、それらは常に青春の貴重な思い出として、時間、空間を超えて鮮やかによみがえってくる。その多くが今日の私の生き方にどれだけプラスになっているかは、いうまでもない」
そして、初めて住んだ外国の生活を、興奮気味に綴っていた。
「私はオックスフォードで初めて銀行に行く経験をした。それは、英国以外の国へ行く機会も多かったため、現地で使用した紙幣を英国のポンドに両替するためである。最初で最後の経験かも知れない。また、カードの通用する店ではクレジット・カードでの買物をしていたが、これも今後はまず縁のないことであろう」
また、ある週末の夜、友人とディスコに出かけ、店に入ろうとすると、店員が拒否してきたという。
「理由を聞くと、ティーシャツやジーンズではその晩は入れない由である。ちなみに私がジーンズ、友達がティーシャツ姿であった。さらにその人は私たちの後方にいた警護官を指差し、『あなたは結構です』と言った。彼はネクタイこそしめていなかったが、ブレザー姿であったから許可されたのであろう。オックスフォード滞在中は、可能な限り他の学生と同じでありたいというのが私の本心であり、自分が誰かを名乗るなどとんでもない話である。素直にそのままあきらめて帰った」
観光ガイド顔負けの詳細かつ正確な描写にじむ、浩宮の思い
今から3年前、私は、「エンペラー・ファイル」(文藝春秋)という本を出版した。機密解除された英米政府の文書などで、天皇家三代を描き、取材でオックスフォードにも足を運んだ。その時、「テムズとともに」を手に、浩宮行きつけのパブなどを回ったが、素直に驚きを隠せなかった。
黒のガウンを着て、入学式が行われるシェルドニアン・シアターまで歩いた石畳の通り、足しげく通ったブラックウェルズ書店、そして、コーヒー豆を買いに出かけたコーンマーケットの市場、ここまでかという位、詳細かつ正確に書かれていた。観光用ガイドなど比較にならず、まるで、路地の1つ1つを愛しむかのようだった。
おそらく、自分の人生で、このような時間は、2度と来ないのを自覚したのだろう。1人で銀行に行って両替をし、クレジット・カードで食事したり、買物をする。私たちに、ごく日常のことが、この上なく大切な思い出になっていた。市内を歩きながら、言いようのない切なさと同情、親近感に襲われたのを覚えている。
サッチャー首相との昼食会にひそむ、英国政府の思惑
そして、2年間のオックスフォード留学を、2度と来ない絶好の機会と見たのは、浩宮だけでない。将来の天皇たる彼の留学を、今後の対日外交に生かす、そう考えたのは英国政府であった。
1984年1月11日、ロンドンの首相官邸から英外務省に、1枚のメモが送られた。
「2月18日の土曜日、首相は、チェッカーズでの昼食に浩宮を招きたい意向である。その日に招待が可能かどうか、確認してもらいたい」
チェッカーズとは、英国の首相の公式別荘を意味し、ロンドン中心部から約60キロの場所にある。元々、16世紀に建てられた古城で、今では首相が週末を過ごすのに使われる。そこへ浩宮を招こうとしたのは、マーガレット・サッチャー首相だった。
さっそく外務省は準備に取りかかったが、昼食会の前日、彼らが作成した文書に、こうある。
「今月23日に24歳になる浩宮は、皇太子(筆者注・現上皇)の長男で、皇位継承順位の第2位」、ピアノやチェロなど楽器も嗜む。「少しシャイだが好感が持て、最初は打ち解けないが、とてもリラックスして話せる若者」という。
「浩宮は(一般的に皇族も同様だが)国際政治や経済に直接関わらず、おそらく強い関心もないと思われるが、首相は、英国と日本に横たわる問題、26億ポンドに及ぶ貿易赤字を認識しておくべきだろう」
「目下、東京で、欧州共同体と日本政府による協議が行われているが、共同体側は、米国以外からの輸入も増やすよう働きかける意向である」
当時、日英の間に横たわった貿易問題、その懸念を、サッチャーから浩宮に、さりげなく伝えて欲しかったのかもしれない。
さらに英外務省は、サッチャー首相が、浩宮の祖父、昭和天皇の健康状態を聞き出すことに触れている。その前月、天皇に拝謁した駐日大使によると、年による衰えこそあるが、82歳にしては元気そうだったという。念のため、身内から情報を取ろうと考えたか。
和やかな昼食会も、熾烈な外交の舞台だった訳だ。
「プリンス・ヒロの留学受け入れによる利益」を見すえた英国の対応
そして、翌年、浩宮が帰国を控えた1985年9月、日本の中曽根康弘総理が、サッチャー首相に書簡を送ってきた。留学中の英国政府の配慮に感謝するもので、それを、駐英日本大使は直接届けたいという。いくら友好国でも、いちいち大使と首相が会ったら、きりがない。だが、英外務省は、要請を受けるよう官邸にアドバイスした。
「首相への会見要請は極めて異例だが、諸事情から見ると、検討する価値があると考える」
「たとえ10分でもよいので、会見に時間を割けば、プリンス・ヒロの留学受け入れによる利益を、さらに強固にし、その配当を手に入れられる。日本人はこうした些細な事柄に強い関心を払うので、大きな効果、すなわち貿易や他の経済問題で公式に話し合う必要が生じれば、こうしたジェスチャーは、一層の価値を発揮する」
将来の天皇に示した配慮に、日本政府は、深く感謝している。今後、外交上の摩擦が生じても、迅速かつ柔軟に対応できる。これは、英国にとっても大きな財産を意味した。
戦前の秩父宮の留学にも外交上の狙いが…
この留学実現の立役者が、元駐日英国大使のヒュー・コータッツィである。
第2次大戦中、日本語特別訓練生として軍に入り、インドやシンガポールで日本人捕虜の通訳に従事した。その後、外務省に入って西ドイツや米国などで勤務し、1980年から駐日大使を務めた。退官後も、日英関係の著書を刊行するなど、親日家として知られた。
私も、ロンドンの自宅でインタビューしたが、とても米寿に見えないエネルギーが印象に残った。このコータッツィが、大使時代、心血を注いだのが浩宮の留学である。後に回顧録で、こう述べている。
「皇太子殿下のご長男の浩宮様(現在の皇太子殿下)が学習院大学をご卒業になるころ、私は皇太子殿下の叔父様になられる秩父宮殿下と同じように英国にご留学されたらいかがでしょうかとご進言申し上げた。この考えは宮内庁の方針と一致して具体的になり、我々はその可能性を検討し始めた。秩父宮殿下も、寛仁親王殿下もオックスフォード大学のマグダレン学寮(Magdalen College)で学ばれたので、浩宮様には別の学寮がよいように見えた」
ここで面白いのは、コータッツィが、昭和天皇の弟、秩父宮の留学に触れていることだ。秩父宮は、大正時代の1925年からオックスフォードで学び、この時の英国政府の記録がある。
それによると、留学は元々、宮内省の松平慶民が訪欧中に提案し、元老の西園寺公望、貞明皇后らの支持で実現した。ちょうど日英同盟の破棄で、両国の関係がぎくしゃくしていた時期だ。英外務省から国王ジョージ5世への報告では、日英関係を改善する効果が期待できるという。
それから60年後、貿易摩擦で日英が緊張する中、浩宮は、オックスフォードで学んだ。時代は移っても、皇族の留学は、外交上の貴重な財産になるという証だろう。
そして、ここで、浩宮は、生涯の師と呼べる英国人教授と、運命的な出会いを果たすことになる。
イギリス政府はなぜ“プリンス・ヒロ”をトップシークレットの部屋へ招いたのか…天皇陛下が留学で学んだ“インテリジェンスとの向き合い方” へ続く
(徳本 栄一郎/ノンフィクション出版)