「必ず後に続く」訓練で散った特攻仲間への「誓い」 待ってろ、明日には出撃命令が出るはずだ

父、山本郎の遺品の中に経歴書があった。基本的に細かく記述されていたが戦時中の部分のみ、
昭和18年10月1日 仙台陸軍飛行学校入校 昭和20年8月18日 召集解除ヲ命ゼラル
と、たったの2行だけだった。
だが、遺品の中には「振武特別攻撃隊 天翔隊 陸軍少尉 山本郎」と書かれたシルクのマフラーがあった。郎は陸軍少尉で、しかも、いわゆる「特攻隊」。生前、母も含めて家族全員、父から戦時中の話は一切聞いたことがなかった。私はその2行の行間を読み解くため、猛烈に調べ始めた……。
「死ぬための操縦訓練」の足跡を追い、78年前の真実にたどりついた山本一清。さんの著書『生きのこる』より一部抜粋し、特攻隊にまつわるエピソードをご紹介します(後編)。
体当たり攻撃の始まり
少年飛行兵 荒木幸雄 ほがらか隊
荒木幸雄が所属する第七二振武隊は、見送りの人達に囲まれて西往寺の庭先で一列に並んで水盃(みずさかずき)をうけた。その様子を佐賀新聞の記者が写真に収めていた。
【写真】同期の戦友達。飛行訓練は生命がけの厳しいものだったが、宿舎に帰ると若者に戻りはしゃぎもした
荒木幸雄は一度海軍飛行予科練習生、いわゆる予科練を受けたが、身体検査で不合格となり挫折した。一念発起して体を鍛え、陸軍少年飛行兵学校に合格した。
郎が特操(特別操縦見習士官)になった同じ昭和18年10月1日、東京陸軍少年飛行兵学校に入校、短期養成操縦要員として大刀洗飛行学校で訓練を受ける。郎と同様に短期間で育成される第十五期乙種生徒であった。
昭和19年3月に卒業。生徒として最高の栄誉となる「航空総監賞」を受けた。卒業後、彼は後に特攻隊員として待機することになる目達原教育隊に配属され、ここでも卒業する時に「航空総監賞」を受けている。
彼はこの後、第七二振武隊の隊長となる佐藤睦男中尉の引きで、平壌(ピョンヤン)の朝鮮第一〇一部隊・第一三教育飛行隊に所属する。
佐藤隊は平壌の南で海に近い海州(ヘジュ)飛行場で九九式襲撃機を使って跳飛攻撃の訓練に明け暮れる。跳飛攻撃はこの段階では体当たりではなかった。
爆弾を超低空飛行で投下すると、水切りのように落下した爆弾が跳躍しながら敵艦船の吃水(きっすい)あたりに着弾するという攻撃方法だった。これは高度な操縦技術を要する上に、恐怖心を克服しなければならないため、過酷な訓練であった。
やがて航空機による体当たり攻撃が始まったことが荒木達の耳に入るようになった。心の隅で「自分達もやがては」と思うようになる。
「希望する意思があるか」