九十九里から米軍上陸計画、現地の91歳女性「最近までデマかと」…本土決戦なら戦後日本は東西分裂の可能性も

太平洋戦争末期、米軍は日本本土上陸を目指す「ダウンフォール作戦」を立案し、その一環として、九十九里浜などから地上部隊を上陸させる計画を進めていた。当時の様子について本紙に投書を寄せた千葉県旭市の斉藤あさ子さん(91)を訪ね、平和への思いなどを聞いた。
戦時中、旭町(現・旭市)の国民学校に通っていました。九十九里浜は東京を空襲する米軍機の通り道となっており、落ち着かない日々を過ごしました。米軍が浜から上陸する作戦を立てていたとは思いもよりませんでした。
米国および英国に対して戦を宣す――。太平洋戦争開戦の放送を聞いたのは9歳の時でした。町中のラジオから軍艦マーチが流れ、日本軍の連戦連勝を知らせる大本営の発表に大喜びをしていました。校舎にはご真影が掲げられ、私たちはその前を最敬礼して学校に通っていました。
潮目が変わったのは、1944年の夏です。サイパン島やテニアン島など南の島が次々と玉砕し、戦況が悪化し始めました。学校には陸軍の部隊が駐屯し、私たちは近くのお寺で勉強するようになりました。

東京大空襲のあった45年3月10日の頃だったと思います。未明に役所のサイレンが鳴り、一家で学校の防空 壕 (ごう)に逃げ込みました。空を眺めると、校庭にあった桜の木の枝に接触するほど低空で飛行機が飛んできました。目をこらすと、胴体に黒々とした星のマークが見えました。米軍機でした。爆音が響き、空からはチラチラと花火のように 焼夷 (しょうい)弾が降ってきました。夜明けに近くの田んぼに行くと、焼夷弾がずぼずぼと突き刺さっていました。町中に落ちていたら、一面焼け野原になっていたことでしょう。
それから空襲が頻発するようになりました。郵便局員だった姉2人は、真夜中でも職場に向かって建物を守りに行きました。郵便局は電話交換業務を担う大事な施設でした。父を早く亡くした私の家には男手はなく、母は負けじと竹やりとバケツを持って集会所に出向いていきました。
当時12歳の私は飼っていた猫を抱いて、防空壕でみんなの帰りを待っていました。いつかは神風が吹いて、日本が勝つ。そう固く信じていました。

ある日の夕方、近くの子どもたちと遊んでいたら、兵隊さんから「浜から敵が上陸してくる。海から遠いところに逃げるように」と伝達がありました。

乾パンや金平糖などを詰め込んだ救急袋を背負って、集合場所に行くと牛車が待っていました。見送りにきた姉たちは「今生の別れになる」と涙を流していました。私は言葉も出ず、下を向いていました。
牛車に乗り込み、いざ山の方へ動き出そうとした寸前、兵隊さんが来て「上陸計画は中止になった」と告げました。私はあっけにとられて、そのまま家に帰りました。
まもなく8月15日を迎えました。近所のラジオ店で聞いた玉音放送は雑音がひどく、何を言っているのか分かりませんでした。大人たちが「男はこれから奴隷だ。女は売られる」と動揺し、戦争に負けたことを理解しました。家では夜になっても明かりをつけることはせず、夕飯も食べずに暗闇で泣いていました。
戦後の食糧難は農家だった母の実家に米や野菜を分けてもらって、しのぎました。東京の人は大変だったと思います。リュックに着物や帯などを入れて畑にやってきてはお芋などと物々交換していました。
米軍の上陸作戦は最近までデマだと思っていました。もし戦争が長引き、千葉に上陸してきたら、たくさんの人が命を落としていたに違いありません。戦争は偉い人が決めれば止められます。世界で戦争が続いている今、指導者の勇気ある決断を強く願っています。(聞き手 鳥塚新)
九十九里浜から進軍計画…東京包囲「コロネット作戦」

防衛省の「戦史 叢書 (そうしょ)」などによると、米軍は1945年11月に九州南部に進攻して飛行場を制圧し、翌46年3月には関東方面に上陸する計画を立てていた。東京に進軍し、日本に無条件降伏を迫る狙いがあった。
関東への上陸作戦は、「コロネット作戦」と呼ばれている。千葉県の九十九里浜や神奈川県の相模湾から同時に上陸して地上戦を展開し、東京を包囲する構想だった。
現実味を帯びる本土決戦に備えて、大本営は九十九里浜などで陣地構築を命じている。ただ物資は十分ではなく、作業は進まなかったという。東城村(現・東庄町)に駐屯していた元兵士は、上陸した米軍に対し、銃先に剣をつけて突撃する命令が下されていたと証言している。
8月に戦争が終結し、作戦が決行されることはなかった。ノンフィクション作家の保阪正康氏は著書で「本土決戦が起きていれば五百万人以上が戦死、戦病死していたのではないか」と指摘し、戦後の日本統治は東西に分裂していたとの見方を示している。