〈「8月15日に靖国神社で花束からドスを抜いて…」奥崎謙三が構想していた『ゆきゆきて、神軍』幻のシーン〉から続く
戦時中、極限状態のジャングルを生き抜き、のちに昭和天皇をパチンコで撃った元日本兵――奥崎謙三の破天荒な言動を追った『ゆきゆきて、神軍』は、今なお日本のドキュメンタリー映画の最高傑作と名高い。同作のメガホンをとった映画監督の原一男と、元刑務官で作家の坂本敏夫が、再び奥崎を語り尽くした。
【画像】昭和天皇をパチンコ玉で撃った元日本兵・奥崎謙三
昭和天皇をパチンコ玉で撃った男
『ゆきゆきて、神軍』(今村昌平企画、原一男監督)は、1987年に公開されたドキュメンタリー映画。太平洋戦争の飢餓地獄、ニューギニア戦線で生き残り、自らを人間の作った法と刑を恐れずに行動する「神軍平等兵」と称して、慰霊と戦争責任の追及を続けた奥崎謙三の破天荒な言動を追う名作だ。
奥崎は第二次大戦中、日本軍の独立工兵隊第36連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣されていた。ジャングルの極限状態で生き残ったのは、同部隊約1300人中、わずか100名ほど。
その後は1956年、店舗の賃貸借をめぐる金銭トラブルから悪徳不動産業者を刺殺し、傷害致死罪で懲役10年。1969年、皇居の一般参賀で昭和天皇にパチンコ玉を発射し、懲役1年6か月。
1972年、ポルノ写真に天皇一家の顔写真をコラージュしたビラを約3,000枚をまき、懲役1年2か月。1981年、田中角栄殺人予備罪で逮捕、不起訴。1987年、殺人未遂等で懲役12年の判決……と、一貫して天皇の戦争責任を訴え、2005年に亡くなるまで希代のアナーキストとして活動した。
今年は今年は戦後80年でもあり、奥崎謙三氏について直接本人を知る原一男さんと坂本敏夫さんにその人物をあらためて語ってもらうことで戦後の検証に近づけようと思います。
坂本さんは、奥崎さんが不動産商業者障害致死事件で大阪刑務所に初犯で入っていたときに刑務官として、原さんはその後、奥崎さんが「皇居一般参賀でのパチンコ発射事件(1969年)」、「銀座・渋谷・新宿などでの皇室ポルノビラ配布事件(1976年)」を起こして前科三犯となり、出所後にその過激な活動をドキュメンタリー監督として追うことで、それぞれに濃密な接点があったわけです。
以前も聞きましたが、そもそも坂本さんが刑務官になるきっかけというのも奥崎さんであったということでしたね。
坂本 父は戦時中、出征先の沖縄戦で重傷を負い、終戦後米軍の野戦病院に6ヵ月入院、昭和21年3月に退院し復員。母が身を寄せていた熊本の実家に帰り、熊本病院に5ヵ月余り再入院の後、退院し熊本刑務所の刑務官として採用されました。当時の刑務所長に将来を嘱望された父は幹部の道を進みます。
10年弱の現場経験を経て、法務省矯正局に異動し、1963年12月暴力団抗争(所謂「仁義なき戦い」と言われている抗争)の余波を受けて、規律秩序が紊乱した広島拘置所の立て直しという法務大臣の特命により所長として赴任します。
広島拘置所を立て直した父は1966年4月、日本一の特大施設・大阪刑務所の管理部長として赴任しました。管理部長というポストは受刑者処遇と刑務作業を統括するナンバー2ポストです。
ちょうどその年は、監獄法に関する省令が革命的に改正され、受刑者の人権が大幅に保障されました。受刑者の人権意識の高まりによって受刑者からの所長面接願いが多数提出されていました。父は大阪刑務所でも指折りの処遇困難者(クレーマーなど)の面接を一手に引き受けました。
そのうちの一人が奥﨑さんだったのです。面接時間は通常の数倍、回数も複数回だったと、私が刑務官になってから関係職員にききました。
おそらく、奥﨑さんからは彼の体験した驚愕する戦争体験を聴き、父も筆舌に尽くしがたい、生きるために封印していた沖縄での悲惨な体験を思い出したのでしょう。今でいうPTSDが発症してしまうんです。それで心を病んで入院するのですが、6階の病室から飛び降りて自死してしまう。
その後、父の同僚に東京の大学生だった私が呼び戻されて、私が父の後を継いで刑務官になれば、官舎にいるお前の母や弟もそのままでいられるというので、私は刑務官試験を受けて合格したわけです。
職務に就いて驚いたんですが、奥崎が刑務官で唯一話ができるのは私の親父だったと言っていたそうなんです。
ある日、奥﨑さんが独居生活で世話になったという刑務官Aさんを訪ねてきました。そのAさんが、私の官舎にやって来て、「奥﨑謙三があんたに会いたがっている。管理部長の息子が刑務官になったと聞いて、どうしても会いたいと会いに来た」というのです。
それで私がAさんの官舎に行くと、奥﨑さんは満面の笑みで私を迎えてくれました。
奥崎謙三の影響力
原 お父さんが沖縄に派兵されたのはいつごろですか?
坂本 1944年4月2日です。父は1941年3月早稲田大学を卒業し翌年2月に招集があり輜重兵として第37連隊に入隊を命ぜられました。門司港から釜山港に渡り山西省に展開していた部隊に着隊、以後幹部候補生として教育に臨み43年4月原隊に曹長として復帰しました。
12月少尉に昇進。44年3月独立歩兵第14大隊に転属し上海を出港しました。着いたのは沖縄県那覇港。ここで、沖縄戦守備隊の先遣隊員として上陸したことを知ります。
以後、7月から9月にかけて大量動員される沖縄守備隊本隊【沖縄本島(第九師団、二四師団、第六二師団)、宮古島(第二八師団、独立混成六〇旅団、同五九旅団)、石垣島(独立混成第四五旅団)、大東島(歩兵第三六連隊)】の受け入れ準備に奔走しました。
開戦後は本隊に所属し一般住民と共に最後の激戦地となる魔文仁の丘まで追い詰められ、そこで敵弾に倒れ重傷を負いました。復員したのは46年3月です。したがって父は住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇全てを目に焼き付けていたのです」
原 沖縄で米軍上陸を迎え撃って、摩文仁の丘での戦いをされたということですから、本当に厳しい戦争体験をされたんでしょうね。
奥崎さんもニューギニアのジャングルの中で泥にまみれ、飢餓や銃撃とも戦ってきたわけですから、お互い感じ合うものが多かったんでしょうね。お父さんが奥崎さんと出逢ってから亡くなるまでの時間はどれぐらいあるんですか?
坂本 1966年4月1日、父は大阪刑務所の管理部長として赴任しました。着任早々は受刑者と面接する時間はありません。余裕ができるのは早くても3ヵ月後ですね。
したがって面接したのは6月中旬だと思います。母の話では6月半ばから不眠が続いていたとのことです。大阪労災病院に入院したのは7月に入ってすぐでした。死亡(自死)したのは8月10日ですから2ヵ月弱です」
原 自死された原因はそれだけではなかったかもしれませんが、ニューギニアと沖縄、お互いの戦争についての話をされる中で、奥崎さんが発した言葉からかなり大きなインパクトを受けたということでしょうか。
立場は受刑者と刑務官でありながら、部下を死なせてしまったという思いを封印していた元軍人に対して大きな影響力を持っていたのは事実ですね。お父さんと奥崎さんは天皇についても話し合われていたんでしょうか。
坂本 父は法務本省で11年余り要職についた経験があります。当時、上司から中央官庁につとめる役人は保守政党の支持でなければ問題だ! と言われたそうですが、父の社会党支持は揺るぎませんでした。
悲惨な戦争体験があったから野党への思いが強かったのだと思います。奥﨑さんと昭和天皇の話し合いをしたこというご質問ですが、父は天皇制に対する意見を述べたのではないかと思います。
ただ、ニューギニアと沖縄戦の体験談は盛り上がったのでしょう。第3区事務所内の調査室での面接は一般的には、せいぜい30分のところ父との面接は4時間にも及んだというのですから、波長がぴったり合ったのだと思います。
原 奥崎さんには、ひとつの行動パターンがあってね。自分のことを認めてくれる人、自分のことを評価してくれる人にはその人のことも評価してすごく丁重に付き合うんです。それは一貫してそうだった。
だから刑務官の中にもいろんな人がいるんでしょうけども、きっとお父さんとは、認め合われたんでしょうね。
独居房で醸成した思想
奥崎さんが「国家は人間を阻害断絶するもの」「権力に対する服従は神に対する犯行である」「天皇と天皇的なるものを根絶した理想社会の実現」などのアジテーションを日常的にするようになったのは、妻のシズミさんによれば、初犯の大阪刑務所で10年の懲役刑をくらって独居房に入れられてからだったそうです。
それまでは口数の少ない人間だったとのことで、その意味では奥崎さんにとって刑務所体験というのが非常に大きかったということですね。
坂本 大阪刑務所で奥崎さんは、最初4 区という初犯で長期囚が入る区にいたんですが、問題を起こし続けて3区に移動させられるんです。4区には独居房がないんです。なので独居房のある 3 区へ行くのですが、ここはいわゆるヤクザ者、反社の人間が多いのです。
奥崎さんはそこでも他の受刑者と問題を起こし続けて案の定、独居房に入れられて『大阪刑務所で5指に入る処遇困難者』になるわけです。彼からすると、自分は人類の恒久平和のために活動している。他の受刑者と違うんだという強烈なプライドがあったわけですね。
原 奥崎さんが大阪刑務所に入った頃は、天皇の戦争責任を追及していくという思想性はまだ完全に確立していなかったと私は解釈してるんです。彼の著作に書いてあったんですが、思想における大きなきっかけで言うと、雑居房かどこかの便所で、他の受刑者と一緒に並んで小便をしていたそうなんです。
そのときに隣にいたのが、若いあんちゃんで、そいつが天皇陛下のことを天ちゃんと言ったそうなんです。それで衝撃を受けるんですね。俺たちが戦時中に現人神、神様と教えられてきた天皇がこんな若造に天ちゃんと呼ばれていると。
そうかそれで良いのだと、そこからかつての価値観が崩れていって、独房で沈思黙考の末、あの思想に繋がっていった。人間的な革命を刑務所の中でというふうに聞いています。
坂本 時系列で言えば、そこは符合していますね。奥崎さんは、懲役10年の6年目くらいから独居房でしたから。
「ヤマザキ、天皇を撃て!」と死んだ戦友の名を叫びながら
奥崎の母親は息子に対して「お前は良くしてくれた人に対しては良く返すが、悪くしてきた人には悪くする」と言っていたという。獄中の中での思索の末、最も自分に対して悪いことをしたのは誰か? それは天皇だという考えにたどり着く。
天皇の名によって行われた戦争で、奥崎が所属したニューギニアの独立工兵第36連隊は、隊員千数百人の内、生還できたのは捕虜になった奥崎と「ゆきゆきて神軍」にも登場する山田吉太郎元軍曹を含めごく少数だけだった。
奥崎は「無知、無理、無責任のシンボルであるヒロヒトを許せない」として1968年8月に出所後、翌1969年1月2日の一般参賀で天皇に向かって「ヤマザキ、天皇を撃て!」と死んだ戦友の名を叫びながらパチンコを発射する。
この事件の一報を聞いたとき坂本さんはどう思われましたか。当時は刑務官になられて二年目でしょうか。
坂本 やはりやったかと思いましたね。大阪刑務所では、5指に入る処遇困難者。それは刑罰を怖れず、独居房にいても自分が正しいと思ったこと、やりたいことをやり続けて来たからで、仮釈放も恩赦も考えていない。国に借りは作りたくないという彼の意志が出ていましたから、出所したら、一番やりたいことをするだろうと思っていました。
原 奥崎さんの手記の中で、自分が殺すべきは不動産屋さんではなくて、天皇だったと気づいたという記述が確か出てくる。それから少しずつ理論武装していくんですが、天皇個人を殺してもまた次の天皇が出てくる、それじゃ何も変わらない――天皇システムこそが、自分にとってターゲットだっていうようにだんだん思想形成されてくる。それから出所してすぐに山田吉太郎さんを訪ねているんです。
山田さんは、独立工兵36連隊にいた戦友で熱帯ジャングルの中を木の根をかじって生き抜き、戦後は単身で国家に喧嘩を売る奥崎謙三とは対照的な生き方をされた。家族を大事にしながら、ニューギニアでの体験を書き残して戦争について考えてきた人です。
しかし、奥崎さんは病床にある山田を見舞った際に、あなたが病気になったのは、戦後に穏健な一般市民のような生活をしたことで、それが間違っていたので天罰が下っているのだとなじる。
原 そう。奥崎さんは同じ連隊にいてあの地獄の中で生き残った山田さんは信頼できる人物だと思っていたんだね。そして昭和44年の元旦に山田さんに会いに行って、「自分は明日、天皇にパチンコを打つ、そのために今神戸から上京してきたんだ」と打ち明けてるんだよね。
その時も山田さんは、「奥崎さん、そういうやり方は良くない、もっと違うやり方がある。自分は違うやり方で亡くなった仲間の慰霊をやっている」と諫めたそうなんだ。奥崎さんは山田さんだけに決意を打ち明けて 2 日に皇居に行ったんです。
出所直後からのそういった歴史を聞くとあの映画の2人の対立のシーンというのはまた深い象徴的な意味を感じますね。
(ラストで奥崎と山田は互いの戦後の生き方について激しい論争を展開する。ニューギニアで飢餓に悩まされる中、部下を殺して人肉を食べたのではないかという疑惑が持ち上がり、何があったのか、真実を話せという奥崎に対し、山田が「ニューギニアで亡くなった人は家族にも聞かせられない死に方をしている、自分は自分なりのやり方で友を慰霊し平和を願って来た。それぞれのやり方があるではないか」と返すと、奥崎は激高して山田を押し倒し、革靴で蹴る。奥崎は暴力を振るったことを謝罪をしながらもこれからも自分の判断で人類にとって良い結果が出る暴力ならば大いにふるうことを宣言する)
後編に続く
取材・構成/木村元彦
現在、『水俣曼荼羅Part2』(仮題)の制作中
新・原一男ホームページ https://www.harakazuo.com/posts/57120967/
新・原一男情報 @shin_kazuohara
新・原一男チャンネル https://youtube.com/@shinharakazuo?si=WCgbD429xvQKZyZO
〈『ゆきゆきて、神軍』奥崎謙三が構想していた、人類の幸福のための「奥崎教」の全貌とは 〉へ続く