日本人は中東情勢への緊迫感が足りない…元外交官・宮家邦彦が指摘する”東アジアの安全保障”への深刻な影響

※本稿は、宮家邦彦『中東 大地殻変動の結末 イスラエルとイランをめぐる、米欧中露の本音と思惑』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
筆者が日本の学界での「中東研究」に興味を持ったのは外務省入省後のことだ。大学では専らバンド活動が忙しかった。中国政府発行の「プロパガンダ満載」教科書で勉強した中国語も、当時は、ほとんど使い物にならなかった。外務省研修所でアラビア語を教えてくれたのは東京外国語大学の高名な教授だった。確か使用した教科書の日本語は、アラビア語と同様、「右から左に」書いてあった(?)記憶がある。
このように外国語の教科書にはあまり恵まれなかった筆者だが、それは中東研究本についても同様だ。筆者の外務省入省は1978年、つまり1973年の第一次、1979年の第二次オイルショックの狭間である。当時中東関連では「石油の確保」「エネルギー価格」「欧米オイルメジャー」など経済情報ばかりが世に溢れていた。本格的な「地域研究」書籍を読み始めたのは、エジプトでの在外研修時代に入ってからのことだ。
筆者は日本の大学での学術的「中東研究」活動を一切経験していない。それでも、今から振り返ってみれば、戦後日本における中東地域研究の流れは3つに大別できると思う。それは、戦後初期の1950~60年代、オイルショック期の1970年代以降、米国の「テロとの戦い」が始まった2000年代以降の3つである。ここからは、筆者の記憶を頼りに、それぞれの時代の特徴を説明していこう。
この時期は中東現地の事情や資料に基づく地域研究が重視された。戦前・戦中に全盛だった西洋中心主義史観に基づく「オリエンタリズム」への反省もあったからだと聞く。特に、当時の学界だけでなく日本全体の政治的潮流を反映していたからか、「アラブ民族主義」を反植民地主義運動の見地から研究することが主流だったらしい。こうした傾向はその後も続き、筆者がアラビア語研修を始めた1970年代末でも、学界の主流は「西洋の植民地主義と戦うアラブ民族主義」だったと記憶する。
当初こうした考え方は革新的だったに違いない。大学卒業から間もない研修時代の筆者にもこれは極めて「真っ当」に映った。在米研修中はジョージタウン大学の現代アラブ研究センターに通ったが、ここでも、これと似たような授業を受けた覚えがある。もっとも、同大の現代アラブ研究センターはアラブ諸国から財政的支援を受けていたから、当時ワシントンでは珍しい「親アラブ」系の学校だったのかもしれない。
1973年のオイルショックと1979年のイラン・イスラム革命により、中東地域に対する日本人の関心は一気に高まった。変な話だが、もしオイルショックがなければ、筆者の研修語はアラビア語にならなかったかもしれない。そして、筆者が中東を直接知らなければ、今のような外交評論は恐らくできなかっただろう。その意味で、筆者は「石油戦略」を発動したアラブ産油国に感謝しなければならない、とすら思う。
それはさておき、1967年の第三次中東戦争以前から、日本ではアラブ民族主義、パレスチナ紛争、中東での米ソ対立などに関する研究が本格化していた。当時学界の主流は「反欧米中心史観」に基づく「アラブ民族主義」礼賛だったことは既に述べた。ところが、1970年代のオイルショック後は、一転して経済関係の研究が飛躍的に増加していく。当時の議論は専ら原油・天然ガスなどエネルギー資源を「いかに確保するか」だったと記憶する。
2001年のアメリカ同時多発テロ以降、中東では米国による「テロとの戦い」の時代が始まる。これに伴い国際政治における中東の位置付けも再び変化していった。米国の軍事活動はアフガニスタン、イラクだけでなく、シリアにも及んだ。同時に、米国の戦略的関心も、イスラエルの安全保障の確保から、中東におけるイランの脅威、湾岸アラブ産油国からのエネルギーの間断なき流れの確保の方に、徐々に傾いていった。
当然、世界の中東研究にも変化が生じ始める。伝統的な中東地域研究が、国際政治学や安全保障研究などと密接に結びつくようになったのだ。国際テロリズム、中東での各種紛争、主要国間の覇権争い、クルドなど少数派集団などをテーマとする研究も増加した。これに対し、日本では若い研究者を中心に中東をより多角的に捉える研究が増えたものの、中東を日本の安全保障の観点から多角的、戦略的に分析するという発想は生まれなかった。
以上の通り、日本の中東研究はオイルショック以降、質量ともに飛躍的に進化していった。筆者が外務省に入省した頃は、日本語で読める中東関連の良質な書籍、論評を探すこと自体、容易ではなかった。その意味で最近の状況には「隔世の感」を禁じ得ない。しかし、筆者は外務省で日米安保や中国問題などに「寄り道」をした身である。専門家の中には「宮家は本当の『中東屋』ではない」と思っている人も多いのではないか。
勿論、筆者にも「言い分」はある。これでも、若く元気のある時期に中東の言語、歴史、地域情勢を一生懸命勉強したものだ。ところが、外務省本省や世間の関心の大半は、米国、中国、朝鮮半島、ロシア関連ばかり。経験則で申し上げれば、中東に日本の世間の関心が向くのは、概(おおむ)ね10年に一度。現地で大戦争、大規模テロ、革命、日本人の人質などの事件が起きた時だけだったと記憶する。
勿論、この時ばかりは総理官邸も外務大臣室も、中東への関心が異様なほど高まる。あれはどうなった? これはまだ分からんのか? といった質問や要望が洪水のように舞い込む。だが、英語や仏語とは異なり、中東専門家の数は限られている。だから、一度中東で大事件が起きると、省内と在外から専門家と経験者を総動員し、大タスクフォースを組んで、連日徹夜の作業が続く。それでも、事件が一段落したら、あれほど大騒ぎした中東への関心が蜃気楼(しんきろう)のように消えてしまうのだ。
1980年のイラン・イラク戦争、1990~91年のイラクのクウェート侵攻と湾岸戦争、2001年の米国同時多発テロ以降のアフガニスタン戦争とイラク戦争、全てがそうだった。「10年に一度の大騒ぎ」が何度も繰り返されたからだ。でも、考えてみれば、当時は、中東での日本の最大関心事が主として「原油・天然ガスの安定供給」の時代だったから、それはそれで良かったのかもしれない。
しかし、今は米国とイランが直接戦闘を交える時代である。当然、問題は「エネルギーの安定供給」に止まらない。東アジア、インド太平洋地域を含む、世界的規模の安全保障にも直接関わってくるからだ。既に述べた通り、「湾岸・東アジア」シーレーンが寸断されれば、日本や韓国だけでなく、中国を含む東アジア諸国の安全保障に直接悪影響が及ぶ。中東湾岸地域は今や「中露朝イラン」との地政学的覇権争いの中核となりつつあるのだ。
ここで筆者が気になるのは、日本における「中東研究」のあり方だ。既に述べてきた通り、日本の中東研究が近年飛躍的に深化していること自体は疑いがない。他方、日本の中東研究には欧米では当然の視点が欠けている。それは中東地域をグローバルな国際政治や日本の安全保障戦略といった視点で捉えたうえで日本の国益をまず考え、それを中東においていかに最大化できるかを考えることだ。そうした発想を持つ研究者が日本にはまだまだ足りないのではないか。と筆者は危惧する。そのことは、第一次オイルショック以降、過去50年間の日本の対中東外交史を振り返れば、一目瞭然であろう。
1950~60年代のような「アラブ民族主義」的史観や70年代までの「イランと日本は伝統的に友好国だ」といった主張が間違っていたとは言わない。戦後日本の中東研究の先達の努力と先見の明に敬意を表するのは当然である。しかし、それと同時に、日本の中東研究は、中東諸国のためではなく、究極的には、日本のためにあるべきではないか、とも思うのだ。これが筆者の問題意識である。
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(キヤノングローバル戦略研究所理事・特別顧問 宮家 邦彦)