北海道で新聞配達中の男性がヒグマに襲われて死亡…札幌市内でも秋に起きていた“異変”→住宅街の極狭エリアに7頭が出没

「Tipping point(ティッピング・ポイント)」という言葉がある。社会学・生態学・疫学などで広く使われる概念で「転回点」などと訳されることが多い。例えば、疫病の感染拡大はじわじわと一定のペースで増えていくのではなく、ある臨界点(閾値)を越えた瞬間に非線形的な急増(感染爆発)を引き起こす――こうした急変現象を指す言葉である。
2025年、日本各地で起きているクマの大量出没は、まさにこの言葉を思い起こさせる。2025年度上半期(4月~9月)の時点で全国のクマの出没件数は2万件超。出没件数と比例して人身事故も過去に例を見ないペースで増加、環境省によると12月5日時点の速報値で209件に達し、死亡者も13人と過去最悪の数字で推移している。
特筆すべきは人身事故のほとんどが山間部ではなく、市街地で起きているという点だ。(全3回の1回目/ #2に続く )
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なぜクマが人里に大量出没するのか
なぜクマが人里に大量出没するのか。その背景として一般的に言われているのは、(1)クマが住む山林と人里の間にあった農地や里山など「緩衝帯」の消失(過疎化により里山を管理する人がいなくなった)(2)捕獲圧の低下(ハンターの減少や高齢化でクマを獲る人が減った)(3)“人慣れグマ”の増加(1~2を背景に「人を見ても逃げない」あるいは「人の生活圏から餌資源を得ることに抵抗のない個体」が増えた)という3つの要因である。
それに加えて今秋の大量出没の直接的なトリガーとなったのが、ヒグマにとって秋の重要なエサとなるドングリなどの大凶作だ。
こうした複合的な要因により、クマが人間の生活圏深くへと侵入しているのが今年のクマ被害の特徴である。これは本州のツキノワグマのみならず、北海道のヒグマでも同様である。
住宅街の極狭エリアに7頭のヒグマ
現在、筆者が住んでいる札幌市に「西野」と呼ばれるエリアがある。西野地区は札幌駅の西、約10kmに位置し、手稲山や三角山といった札幌を代表する山々のふもとに広がる住宅街である。地区全体の面積は9平方キロメートルに過ぎない。
ところが今年10月、札幌市郊外のこの狭いエリアに1カ月で大小7頭のヒグマが出没し、駆除されている。具体的なデータで見てみよう。
以下に掲げるのは、北海道新聞の報道記事をもとに筆者が作成した西野地区周辺で駆除されたクマの一覧である。(※カッコ内は体長、以下同)
10月9日 西区西野 箱ワナ メス成獣(1.4m)
11日 西区西野 箱ワナ オス成獣(1.5m)
13日 西区西野 箱ワナ メス成獣(1.4m)
14日 西区西野 箱ワナ メス成獣(1.3m)、子グマ(65cm)
24日 西区西野 緊急銃猟 メスの子グマ2頭(70cm、80cm)

※10月24日に駆除された2頭の子グマは、それ以前に駆除されたメス成獣の子グマと考えられる。
西野地区に住むヒグマ対策のプロ
ちなみに西野地区は現在筆者が住んでいる場所からも車でせいぜい10分ほどの距離にすぎない。連日ニュースで報じられる出没と駆除の情報に「今日駆除されたのは、いつどこに出てたクマだ?」と混乱するとともに、まるでヒグマが大挙して自分の生活圏に押し寄せてくるような感覚を覚えた。
同時に「あの人はどう見ているのかな?」と気になった人物がいる。
「野生動物被害対策クリニック北海道」代表の石名坂豪である。
「“あらまぁ、やっぱりこんな近くにいるんだなぁ”という感じですかね」
その石名坂は、この人らしく飄々とした調子で言った。
2006年から2023年まで知床半島で環境省や知床財団の職員としてヒグマ対策に携わった石名坂は、獣医の資格を持ち、網・わな・第一種銃猟免許を所持するハンターでもある。いわば“ヒグマ対策のプロ”である石名坂が2023年に独立し、鳥獣対策コンサルタントとして事業所を立ち上げたのが、まさに札幌市西区西野だったのである。
「もともと西区には祖父母の家が昔あったんです。せっかく知床から札幌まで来たのに、まさか家から見える場所にこれほどヒグマが出てくるとは思いませんでした」と苦笑する。
札幌市内で秋に起きた“異変”
石名坂は、そもそも2025年の札幌における大量出没をどう見ているのだろうか。
そう尋ねると、石名坂は今秋のある「異変」について語り始めた。
「今年の初夏に他の会社のアルバイト調査員として、定山渓周辺の山に何度も入ったんです」
札幌市南区にある定山渓といえば「札幌の奥座敷」とも称される定山渓温泉で知られるが、その周囲の山々はヒグマの濃厚な生息地でもある。
「行ってみると、確かに自動カメラにはクマが映っているし、フンや足跡などの痕跡もそれなりにあったんですよね」
クマの生息地にクマの痕跡があるのは当然で、この時点では異変でもなんでもない。そして9月と10月、別の仕事で石名坂は、再び定山渓の山に入った。
夏に調査で入ったのと同じエリアに差しかかったとき、石名坂は呆気にとられた。
「どの木を見てもドングリが全然ないんです。あちこち見渡しても、ミズナラにドングリの実は全然ついていないし、かろうじてあったとしてもひねたようなごく小さな実しかない」
昨年の秋にミズナラのドングリが大豊作だったので、その反動で今秋は凶作だろうと予想してはいたが、実際目にした惨状は想像以上だった。しかも不作はドングリばかりではない。
「クマはこの時期、ヤマブドウやコクワ(サルナシ)などの実も食べるのですが、そうしたツル性植物の実もなっていない。双眼鏡で一生懸命探しても申し訳程度にしかついてませんでした」
その結果、夏にはあれほど濃厚に感じられたクマの気配は、そのエリアからほぼ消えてしまっていた。フンも足跡もまったく見つからなかった。石名坂は「自分がクマだったとしてもこの場所は見捨てるだろうな」と思わざるを得なかった。
クマ社会で進む“ドーナツ化現象”
山からクマの気配が消えたことは何を意味するのか。
「恐らく、“ドーナツ化現象”のようなことが起きているのかもしれません。つまりもともとは山奥にいたクマまで含めて、食べ物を求めて、実りのない山を出て人里の方へと移動しているのではないか」
通常、クマの生息場所には“序列”がある。人間の気配が少なく木の実が豊富な山奥には強いクマが居座り、その次に強いクマがその下のエリアに、親子グマや弱いクマは山のすそ野の方、人里に近い方に押し出される。人里近くには果樹園や家庭菜園がありエサには困らないが、その分、人間との接触機会も増えるので、クマにとっては本来居心地のいい場所ではない。
だが山の実りが極端に少ないと、本来山奥にいるクマもエサを求めて山を離れざるをえなくなる。
「もちろん山にいるクマがすべて人里に出ているわけではありませんが、とくに子連れのメスに関しては、例年以上に通常年の生息域を越えて移動している印象があります」
石名坂の印象は、西区で捕獲されたクマのほとんどがメスであったことからも裏付けられそうだ。
大量出没の2つのパターン
石名坂によると、クマの大量出没には2パターンあるという。
「(1)8月から9月初旬にかけての夏の大量出没と、(2)9月中旬以降の秋の大量出没という2パターンです。例えば私が知床で経験した2012年の大量出没は(1)のパターンで、2015年の大量出没が(2)のパターンでした」
(1)の真夏の時期はもともとクマが好む食べものが高山帯のハイマツのマツボックリと川を遡上するカラフトマスぐらいしかない。そのためハイマツが不作で、さらにマスの遡上が海水温上昇で遅れたりすると、クマは一気に飢えてしまい、人里への大量出没に繋がる。
「それでも秋になって山中にドングリなどが実れば、大量出没も落ち着くのですが、問題はドングリ類が不作だった場合です。ただでさえエサの少ない真夏の時期を経て、一息つくはずの秋の実りがない年に(2)のパターンの大量出没が起きる」
この秋、札幌で起きたのは、まさに(2)のパターンの大量出没ということになる。
「恐らく、本州各地におけるツキノワグマの大量出没も同じメカニズムだと思います」
ただ、と石名坂が首をひねる。
「実は今年(2025年)の夏、道南でも大量出没が起きたんですが、今夏の道南の大量出没の“トリガー”となった食物がなんだったのか、あまり道南の土地勘がないので、そこがちょっとわからない」
その道南の福島町では2025年7月、新聞配達中の男性がヒグマに襲われて死亡、その遺体を食害されるというショッキングな事故が起きている。石名坂はその現場にも入っており、何を目撃したのだろうか。
〈 「クマがかみついたまま…」「腹部を噛まれた」新聞配達中の50代男性がヒグマに襲われて遺体で発見…現場に残された“生々しい痕跡” 〉へ続く
(伊藤 秀倫)