「私は羆に用心するから、遭遇することは滅多にない」それでもうっかり近づきすぎて見た羆の姿は…

〈 盛岡市郊外に住んで一カ月「近所の防災無線から三日に一度、ときには日に数回、クマの出没情報が」 〉から続く
昨年の「今年の漢字」にもなった「熊」について、近くから、遠くから、考える。「 文學界 」2026年2月号の特集「熊を考える」より、作家・久栖博季さんのエッセイ「一頭の動物として」を特別に公開します。
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かすかに獣の匂いが残っていた。乾いた風の吹き下ろしてくる斜面を、長靴の足で踏ん張ってゆっくり進む。秋の深まった北海道の山だ。整備された遊歩道を外れ、熊笹を掻き分けてここまで来た。落ち葉が足元に厚く積もっていて、長靴が沈む。視線を少しだけ上げて、斜面の中腹の土が剥き出しになった所に蹄の足跡を見つけた。足跡の主もここで踏ん張って斜面を登って行ったのだろうか。細い脚で、私なんかよりもずっと軽やかに進んだのだろう。ここは鹿の道だった。
立ち止まり青い空を見上げたら、鳶が一羽、薄い雲を引こうとするかのように弧を描いていた。しばらく目で追ったが、やがて私の視力は鳶を見失い、空の高みからただ孤独が降ってくるような寂寥を感じた。冷たい空気を吸って、そっと吐いた。あの鳥みたいになりたかった。孤高でありながらも、ちゃんと生命の輪の一部となってこの土地に結ばれている。さっき感じた寂寥はこの輪から外れそうになっている人間への警告なんじゃないかと思った。私は鳶の航跡を羨む。
山道を歩く時、私は一頭の動物になる。もともとあまり目は良くないから、音と匂いと地を踏む足裏の感触に集中する。辺りに人間の気配はない。どうにも人間の社会は居心地が悪くて、こうして山にいるほうが息をするのがらくだ。もしかしたら私は、羆より人間のほうが怖いかもしれない。自分も人間のくせに。
そうは言っても、実際に羆に遭遇するのはやはり恐ろしいことで、積極的に出会いたくはないから熊よけの鈴は持っている。ラジオはつけない。それより周囲の物音に耳を澄ますほうがいい。この時期の獣の足音は乾いた植物を踏むガサガサという音で、夏の足音はもう少しやわらかい。よいしょ、ともう一踏ん張りして斜面を登りきると、開けた場所に出た。りーん、と熊よけの鈴を鳴らすと澄んだ音が波となって広がっていく。遠くから水の音が聞こえる。その方向へ蹄の足跡が続いていた。
最も恐ろしいのは、至近距離でのふいの遭遇
羆をめぐって最も恐ろしいのは、至近距離でのふいの遭遇だ。用心しないで歩いて、気がつくと目の前に羆がいた、なんて状況は絶対に避けたい。羆だってそう思っているに違いない。異質なものに遭遇した時、驚きと恐怖で攻撃が出る。それは自然なことだ。あの巨体、長く強靭な爪から繰り出される一撃は、間違いなく私を殺す。顔面の皮膚を切り裂き口腔内まで貫通した爪が肉を抉り顎を砕く。かなり痛いにちがいない。原型を留めない自分の死に顔を想像して慄く。そうやって死んだ自分に猛禽やカラスが群がり、肉を啄んでいくのだろう。関節をつなぐ腱が切れ骨が離散し私がバラバラになる。他の動物の生きる糧になることは生命の輪の一部として、確かに世界に結ばれているということなのだから、その光景のあとに残る、あるかなきかの静寂に安らぎを覚える。でも、心のどこかではそんな死にざまは嫌だと、人間らしく思っている自分もいる。私はそんな弱い一頭の動物だ。
蹄の足跡を辿っていくと、水の音が近くなっていく。秋の陽射しがさらさら降りて立ち枯れた植物が金色に光る。風が通ると、光は跳ねるように輝く。あれは自らの季節を終えた植物のたましいなのではないか。植物が不自然に揺れたと思ったら、一匹のキツネが姿を見せて私の目の前を木枯らしのように駆け抜けていった。毛並みの煌めきはたちまち原野を覆う植物の光にまぎれて見えなくなる。あるいは、この大地そのものがキツネの背中なんじゃないかと想像することもある。小さな私が、長靴の頼りない足取りでせっせと金色の背によじ登っている。風に吹かれて金色にくすぐられながら、風上から羆の匂いが流れてこないことを確かめる。強く匂うまで近づいてしまっていたら、もう逃げられないに違いない。
私はどうして山に入るのだろう?
それにしても、これほど警戒し、羆の強さ恐ろしさを知っているというのに、私はどうして山に入るのだろう? 私だけではない、父も含め自分の身近にいるこの土地の人々は春にはタランボの芽やワラビ、初夏まではフキ、秋にはキノコを採りに平然と山に入っていく。熊出没のニュースを見たってお構い無しだ。どうして行けるのか、恐ろしくはないのか? そう問いかけた自分の胸に「信頼」という言葉が浮かぶ。信頼。言葉の重みを背負って一歩一歩水辺に近づいていく。
この大地は羆とある時は共生し、ある時は戦ってきた深い歴史がある。その感覚は今も息づいて歩く度に足の裏から伝わってくるような気がする。北海道に和人が多く移住してきた開拓期には三毛別羆事件をはじめ、人間が羆に襲われた話がいろいろと残っている。その度に人間は武器をとって知恵を絞り、なんとか〈人食い熊〉を倒そうと挑んできた。それから、家畜をいかにして守るか頭を悩ませたこともあっただろう。それより前の、アイヌの伝統的な生活に想いを馳せれば、羆は肉と毛皮を携えて人間のもとにやってくるカムイだった。子熊を大切に育てあげ、たくさんのお土産を持たせてカムイの国へ送り返すイオマンテという儀式はあまりにも有名だ。北海道の観光土産である木彫りの熊のことも思い出す。冬眠して羆の姿が見えない時期に、人間の手が木から羆の姿を彫り出していく。これほどまでに、この大地に生きる人々にとって羆という存在は生活と固く結ばれている。山の幸を享受する私も、出会いたくないから、という消極的な理由ではあるが羆を意識しないで過ごす年はない。山菜でもキノコでも絶対に採り過ぎてはいけないのは、羆を始めとした野生動物のためだ。羆のことを「山親父」と呼ぶこともあるが、それは畏怖とともに親しみがこもった呼称だと思う。親父という言葉で人間と羆を重ねている。怖いものであっても、身内の存在でもあって、避けてばかりはいられない。生活に密接している以上、知らんぷりはできない。自分の身を守るために羆について知識をつけねばならず、恐れると同時に挑むこともやめられない。山菜やキノコを採る者にとってはこれが生活そのものだ。そんな土地の記憶を継承していくこととは、山と信頼を結ぶことなのだと思う。信頼は長い時間をかけ、この土地と人間のあいだに醸成されてきた知恵である。熊をよく知る人ほど過剰に恐れない。とあるキャンプ場の管理者はけろりとして「熊出っから」と言い「山に羆がいるのは当たり前」なのだと語った。
羆に遭遇しないルートを選ぶ
当たり前のこととして、私は羆に用心するから、遭遇することは滅多にない。私が羆を避けようとするのと同じように、羆もまた私を避けようとしてくれる。風上の匂いに注意を向けつつ羆に遭遇しないルートを選ぶ。私なんかよりもずっと鋭い嗅覚を持つ羆は、たぶんより用心深く避けてくれる。羆も人間も、お互いに出会いたくないと思っている、このくらいの距離感がちょうどいいのだし、そこに信頼がある。
蹄の足跡を辿ってきた長靴の足が水辺に辿り着く。立派な角を持った牡鹿が一頭死んでいた。あるいは足跡の主だったのかもしれない。病気だったのだろうか。この水辺で最期に喉を潤したのだろうか。はっきりしたことは何もわからない。別の可能性として、足跡の主はもうずっと遠くまで軽々と駆けてしまった後なのかもしれなかった。なんであれここに残された死は、私に自分が今、生きているという実感を喚起する。ぞくぞくっと生の感触が肌を走る。目を凝らせば、浅い水のそこ、ここに、金色に光る草の根元に、白い骨片が散らばっている。もうすぐこの死を食らう者たちが集うだろう。そしてきれいな骨片になるまで食い尽くされるのだ。大きな魚が水面に浮かんできたのを見れば、ボロボロの尾びれでゆっくりと進む産卵を終えた鮭〈ホッチャレ〉だった。ああ命だ、と思う。生命の輪がここにある。
風はやんでいた。百メートル以上は離れた高い場所に黒っぽい塊が見えて、羆だとすぐにわかった。冬眠の季節が迫っているからせっせと食べ物を探しているのだろう。昨年は人里への熊の出没が相次いだ。ニュースを見るたびに思うのは、人間は熊という動物に対して実にさまざまなイメージを与えているなということだ。たくさんの愛らしい熊のキャラクターたち、それとは正反対の獰猛な人食い熊の恐るべきイメージ。人間たちはそれぞれに様々な熊の姿を語る。そのイメージをもとにある者は熊を守れと言うし、別の者は絶滅させてしまえと言う。でも本当のところ、熊は熊という一頭の獣でしかない。私の頭に浮かぶ熊の姿は、キャラクターでも人食い熊でもなくて山に当たり前のようにいる一頭の獣であり、それは私がこうやって山を歩きながら時間をかけて知っていった熊の姿だ。ニュースを見た人間が熊に対して持つイメージが、ネットを中心に人々の話題に立ち現れる熊の姿なのだとしたら、そこには現代の私たちが懸念する問題が投影されているのではないか。例えば排外主義のような。人間は知らないものを極度に恐れ、排除しようとする習性がある。
たぶん人間ほど狩りやすい動物はいない。それなのに人間は、自分たちは狩りの対象にはならないと素朴に信じているところがある。だから熊に襲われた人のニュースはあれほどセンセーショナルに映るのだと思う。都市に守られて生きる人間は獣の匂いさえすっかり忘れている。私は人里に下りてきてしまった熊を殺すなとは言えず、ただ信頼が崩れてしまったと考える。熊が人間の領域を侵してくるのなら、人間は毅然として戦わなければならない。けれど「じゃあお前は殺せるのか?」と問われたら躊躇してしまう。私は弱い動物だとやっぱり思う。反対に、人間が熊の領域を侵すなら、攻撃されたとしてもそれは仕方ないのだし、熊の領域に食べ物を含めて熊の興味を引くような人間の痕跡を残すべきではない。それが動物としての礼儀であると思う。そういうことを長い間守り続けることで生まれた信頼があった。コロナ禍でアウトドアブームが起こって人間たちがこぞって山へ入っていった時、そこに住む他の動物は何を思っただろうか。今、人間の領域に熊が入り込んでくるのはその裏返しのように見えてくる。ドングリやブナの実が大凶作だと言うのだから、自然を楽しもうとする人間よりずっと必死だ。熊はただ生きたいだけなのだ。
うっかり近づきすぎて見た羆の姿
動物の写真を撮るカメラマンはどのくらいの距離から羆を撮影するのだろう。このくらいの距離で望遠レンズを使えば堂々たる羆の姿が撮れるかもしれない。怯えるほどの距離ではないが、できればすみやかにこの場を離れたほうがいい。私はiPhoneのカメラを構えようという気にはならなかった。野生動物の写真を撮りたいとは思わない。代わりにずっと覚えている羆の姿がある。自分が今より若くて未熟だった頃にうっかり近づきすぎて見た羆の姿だ。背中に秋の陽を浴びて金色に輝いていた。あれをカムイと表現した人々の気持ちがわかったような気になった。その羆は私には目もくれないで、光が躍動する草の波間を悠然と歩いて行った。こうやって、私も羆に美しく気高いイメージを与えて憧れる。そんなことを思い出しつつ、一頭の動物の私は長靴の足跡だけを残して、背中を丸めて跳ねるように、その場を去った。
〈 「さっき、木村さんの家のまえを、熊が走っていきましたよ」確実に近くにいるのに、なんだか遠い 〉へ続く
(久栖 博季/文學界 2026年2月号)