日本初の女性宰相となった高市早苗氏 は、いかにして政界を生き抜き、国会議員として這い上がってきたのか。
奈良の青年会議所(JC)の若者たちに支えられ、1992年7月の参院選出馬を決めた高市氏だったが、自民党公認を懸けた奈良県連の予備選で、世襲候補である服部三男雄氏に 僅差で敗れてしまう 。その後に取った高市氏の行動が、奈良政界の重鎮・奥野誠亮(2016年死去)を憤らせたという(本文中敬称略)。
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「それでも出たい」という高市の反逆
予想通り、結果は三男雄162票、高市137票、無効1票。25票差で高市は敗北を喫したのだった。
事前の取り決めでは、高市は三男雄を応援する側に回るはずだった。
予備選の後、高市は、JCメンバーを中心とする支援者が集まる奈良市内のマンションの一室に姿を見せ、無所属で出馬すると宣言するのだ。
粒谷友示(自民党奈良県議。当時は生駒市議)は、その時の空気を今も覚えている。
「高市さんに『どうすんの?』といったら『それでも出たい』という。それを聞いた面々は、みんな若い連中やから『やれやれ!』『こんなんおかしいやんか!』となった。それで『じゃあやろうか』と、出馬が決まったんです」
それは、高市の最大の後ろ盾だった奥野の裁定を反故にする決断でもあった。
「奥野さんは高市に対して『反逆だ』と相当怒っていた。取材に来た記者に対しても、『裏切られた』と本音を漏らすほどでした」(地元政界関係者)
粒谷もこう語る。
「奥野さんは県連会長として苦しい中で裁定して、服部という選択をした。その意味では高市に裏切られたわけだから、憤っておられたわな」
一方、高市を支持したのは若者たちだった。彼らは予備選が三男雄という世襲候補に有利だったことに憤り、旧態依然とした自民党の体質によって、地盤もカバンも持たない新世代の政治家候補の芽が摘まれようとしていると反発した。
粒谷は、わざわざ自民党を離党して高市の選挙を手伝った。当時をこう振り返る。
「本人は、最初の選挙から、やるからにはトップ(首相)を狙うというのが希望だったと思うわ。単に国会議員になるだけやなしに。だからこそ『面白いな、この子は』と思って応援したんや。一般のサラリーマン家庭の子供が夢を持って国政に挑戦する。そこにロマンがあったんやな」
高市早苗、31歳。サナエ劇場の幕が開いた。
選挙でも寝なかった
高市は「平成維新隊さなえ組」と呼ばれる組織を支持母体に選挙に臨んだという。当時の報道によれば、高市事務所の広報担当者の話として、「さなえ組」は学生や主婦などのボランティアで構成される集まりで、多い時で300人から400人が事務所に出入りしていると伝えられる。出馬にあたっての高市のリーフレットにも、〈奈良から日本に吹かせたい 平成維新の風!〉と記されていた。
89年に出版されてベストセラーになった大前研一の『平成維新』(講談社)を意識しているのだろう。政府と霞が関を解体して真に国民のための政府を作り出すことを提唱したこの本は、当時の政治改革ブームもあって広く読まれた。新顔の高市にとって最大の武器だった刷新感とも重なる。
“勝手連”的に集まった市民たちから支持を集める、「平成維新」を目指す若き女性候補。「米国では納税者からの意見書が毎日、議員事務所に届く」として、納税者の声に耳を傾ける政治家になり、政治を正すと訴えた。米国風にプラカードを持って歩いたこともあった。
当時の高市の選挙への向き合い方は現在の姿にも重なる。粒谷は言う。
「あの子は人任せにせん。全部自分でやらな気がすまんタイプ。選挙でも寝ないんよ。新聞社のアンケートも政策の文章も、人に任せず自分で書いていた」
乾充徳(初出馬時から高市を支持する大和郡山市議)も、高市が「2日寝てない」と言うのを聞いたことがあるという。
夜はアンケートや政策を書き、日中はとにかく走り回った。団地の住民が窓から顔を出すと、「ありがとうございます」と一人一人に頭を下げる。支援者から「あそこへ行って」と言われた場所に、高市はすぐに駆け付けた。こうした選挙のやり方を、高市は現場で覚えていった。
※この続きでは、 その後の「サナエ劇場」の顛末 を辿っています。約1万2000字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア『文藝春秋PLUS』と『文藝春秋』2026年8月号に掲載されています(甚野博則+本誌取材班「 裏切りと涙のサナエ劇場 奈良『鉄の女』の原点 」)。
(甚野 博則,本誌取材班/文藝春秋 2026年8月号)