〈 「人間の頭髪や顔の一部が…」クマに襲われた男性従業員(60)は遺体で発見…被害者を50メートルも引きずった“クマの執着心”の恐ろしさ 〉から続く
司法解剖の結果、クマに襲われた男性従業員の死因は「出血性」ショックとされた。『 羆を撃つ 』(文藝春秋)より、岩手県北上市の温泉施設で起きた事故を検証した「名物レフェリーはクマに連れ去られた」を紹介する。(全2回の1回目)
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妻の慟哭
瀬美温泉の代表取締役、岩本和裕は、遺体の身元確認に臨んだ。
傍らにはSさんの妻もいる。
「あの光景はもう……思い出したくないですね」
遺体の頭部は全体を白い包帯で覆われていた。
Sさんの妻の慟哭が部屋に響きわたった。
司法解剖の結果、死因は「出血性」ショックとされた。
「ただただ申し訳ない、それしかなかったです。あのとき僕が彼に『うちで働けば?』と言わなければこんなことにはならなかった」
実は岩本とSさんの関係は、単なる「雇用主と従業員」ではない。
Sさんはもともと全日本女子プロレスをはじめとする複数の団体で活躍する名物レフェリーだった。温厚な人柄と公正な判定で「ささやん」の愛称で親しまれ、2015年からはプロレス団体「ゼロワン」の運営会社の副社長も兼ねていた。
岩本はコールセンター事業を手掛ける会社を自身で経営していたが、ゼロワンのコールセンター業務を請け負ったことをきっかけに、ゼロワンの経営にも携わるようになった。
そして2020年から同団体運営会社の代表取締役を務めることになったのである。
岩本が当時を振り返る。
「僕が代表取締役に就いて、Sさんは取締役に退いたかたちですが、2人でもよく飲みに行きました。川崎の『餃子の王将』とかね。で、今でも覚えているんですがSさんは餃子をコショーと酢だけで食べるんですよ。ゼロワンの大谷(晋二郎)選手も同じように食べてたんで、あれはプロレスラーの流儀なんですかね。Sさんってほとんど喋らないんです。僕が一方的に喋って、Sさんは黙ってニコニコしながらそれを聞いているみたいな感じでした」
岩本は同年に団体を去り、その後、経営不振に喘(あえ)いでいた瀬美温泉を買い取った。
一方のSさんは、2025年2月にレフェリーを完全引退。巡業続きの生活を卒業し、家族と過ごす時間を増やすために伝手を頼ったのが、旧知の岩本だったのである。
こうして同年3月、Sさんは妻と娘を連れて、瀬美温泉で住み込みで働くようになった。
「落ち着いたら、そのうちこっちでも飲みに行こうよなんて話をしてたんですが……」
それから約7カ月後、Sさんはクマに連れ去られたのである。
倒産を覚悟した
事故後、岩本にとっての怒濤の日々が始まった。
「まるで自分が映画やドラマの世界に放り込まれたようでした」
断っても断っても、岩本にコメントを求めるメディアの人波は途切れることがなかった。
さらにYouTuberや動画配信者までもが大挙して押し寄せた。
「彼らは現場の映像を撮るために規制線を勝手に突破して、敷地の中に入ってくるので、何度もトラブルになりました」
また、警察による捜査や保健所による調査のため、温泉は閉鎖を余儀なくされた。
「当然、その間は無収入ですが、施設の維持費や十数人いる従業員への給料など固定費は払わないといけない。貯金残高がみるみる減っていき、倒産を覚悟しました」
仮に捜査や調査が終わったとしても、新たに十分なクマ対策を施さないうちは、温泉の再開は事実上不可能だった。だが、対策を施そうにも手元に資金は残っていない。
「そのための資金を金融機関から借りようとしても、どこも貸してくれませんでしたね。メインバンクは“決算書を出せ”の一点張りで、けんもほろろの対応でした」
そんな中で、唯一、話を聞いてくれたのが地元の信用金庫だった。
「僕の何を信じてくれたのか、わかりませんが、これは本当に有難かったです。だって金融機関からすればリスクしかないわけですから」
最終的に、この信金からの融資を受けて、敷地へのクマの侵入を防ぐための鉄柵や監視カメラ、AIカメラ、さらにクマへの注意喚起を促す巨大看板などの新たな安全対策を施した。その費用は総額数千万円に達したという。
こうして事故から約1カ月後の11月17日、内風呂のみではあるが日帰りの入浴から再開した。
私が岩本に話を聞いたのは、それからさらに半年が経った頃だったが、依然として露天風呂は閉鎖されたままだった。
――露天風呂の営業については再開する予定はないんですか?
「ない、ない! だって、逆に聞きますけど、伊藤さんなら再開できますか? 100%安全なんて、ありえないですから。少なくとも僕がオーナーをやっている間は、露天風呂を再開する気はありません」
岩本もまた事故によって心に深い傷を負った。
だが、オーナーという立場は、彼に“被害者”としてふるまうことを許さなかったのだ。
その葛藤が語気の強さに滲んでいた。
(文中一部敬称略)
〈 クマに連れ去れられた男性従業員(60)の遺留品からは「娘さんの給食費の領収書が…」露天風呂に侵入→人間を食害した“クマの異常性” 〉へ続く
(伊藤 秀倫/Webオリジナル(外部転載))