古代からの皇室の歴史を今に伝える重要儀式「即位礼正殿の儀」。朝廷で長く受け継がれてきた形式は、明治以降の近代化で伝統を守りつつも、西洋の王室儀礼を取り入れるなどした結果、現在の形になった。日本と外交関係を結ぶ国家も増えるのに伴い、参列する国もさらに増加。令和の儀式は過去にない規模の国際的な行事となる。
「科学技術立国の日本が長い伝統を大切にしているあり方は、世界の手本となる。即位礼正殿の儀はそうした日本の国柄を世界に発信するだけでなく、国民自身が、それを再認識する好機になるのではないか」
京都産業大名誉教授の所功氏は、こう話す。
即位の儀式は1300年以上前の飛鳥・奈良から平安時代にかけて整えられたといわれる。古くは皇位を継ぐ「践祚(せんそ)」そのものと区別されなかったが、平安時代前期から、十分に準備をして即位を内外に示す盛大な儀式が行われるようになった。
大きな転機となったのは明治維新。当初、「王政復古」を掲げていた明治政府は、それまで中国王朝「唐」の例にならった装束などのスタイルを一変させ、明治天皇の装束に日本独自の束帯である「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」を採用。調度品も日本風に改める一方、京都御所の門に地球儀を飾り「文明開化」も印象づけた。
“開国”による儀式の国際化も進んだ。天皇が京都から現在の東京に移った後も、大正、昭和の儀式は明治憲法と旧皇室典範下で皇位継承の儀礼を定めた「登極令(とうきょくれい)」に基づき、京都御所の紫宸殿(ししんでん)で挙行されていたが、一方で外国使節も招かれるように。また、全国各地で奉祝行事が行われるなど、国民にも広く歓迎されるようになった。
さらに登極令では西洋の王室儀礼を参考に、天皇と皇后が並び立つように規定され、天皇が昇る玉座「高御座(たかみくら)」だけでなく、一回り小さい皇后の「御帳台(みちょうだい)」も作製された。大正天皇の貞明(ていめい)皇后は懐妊中で使わなかったが、昭和天皇の香淳(こうじゅん)皇后は皇后として初めて御帳台に立った。
令和の儀式は、基本的には平成を踏襲することになる。日本国憲法下で初だった平成の即位礼正殿の儀は、日本が世界第2位の経済大国として行ったもので、160の国と機関の元首ら海外賓客が招かれ、警備などの理由から、会場は京都から東京・皇居に移転した。
一方で、随所に、国民主権を原則とする現憲法の精神への配慮が見られた。大正、昭和で紫宸殿の階段下からだった首相の万歳三唱は、天皇と同じ松の間で行われた。政教分離の観点から、神話に由来する「八咫烏(やたがらす)」などを描いたのぼり旗も姿を消した。
令和でも、こうした点は基本的に同じだが、海外から参列する国や機関は平成を上回る180超となった。また、儀式の挙行時期が変更された。平成では、11月に行われる重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の10日前だったのに対し、令和では約1カ月前に。天皇、皇后両陛下のご負担を考慮し、より柔軟な対応が取られた。