【時任 兼作】山口組ナンバー2、グリーン車で向かった出所祝いと「七代目就任の噂」 警察も翻弄された

10月18日、山口組ナンバー2の高山清司若頭が東京・府中刑務所から出所した。京都府内の建設業団体の幹部から計4000万円を脅し取ったとする恐喝の罪で、2014年6月から収監されていた。
同日午前6時前、高山氏を乗せた神戸ナンバーの黒のミニバンが刑務所を出発。午前7時前に防弾チョッキを着込んだ大勢の警察官が配置された東京・品川駅に到着すると、山口組幹部らに囲まれながら、1両貸切にした東海道新幹線のグリーン車に乗車した。
いったい、どこに向かったのか。報道陣はもちろん、警察すら最後の最後まで特定できずに翻弄され、追尾を余儀なくされた。

捜査関係者が語る。
「本来であれば、神戸市内の山口組総本部へ向かうところだが、同本部は山口組分裂抗争の激化で使用制限がかかって使えなくなった。今月10日、(2015年に山口組から離脱した)神戸山口組の中核組織・山健組の組員2人が、山口組の司忍六代目組長、高山若頭らの出身母体である弘道会傘下の組員に射殺されたからだ」
行き先を特定できていない警察は新幹線に同乗し、そのあとを追ったという。高山氏が下車したのは名古屋駅。改札を出ると、待機していたワゴン車に乗り込んだ。
「名古屋で降りるのは、実は予測済みだった。が、その先がよくわからなかった。山口組総本部と同じく、愛知県内にある弘道会の本部や傘下の組事務所など5か所は、使用制限がかけられていたためだ」

そんななか、浮上したのが名古屋市中村区にある四代目山本組の事務所であった。同組の中野寿城組長が弘道会の若頭であるからだ(編集部注:広域暴力団は、下部組織の組長が上部組織の役職に就くような形でピラミッド型の組織を形成している)。高山氏の放免祝い(出所祝い)が、そこで開かれるとの情報もあった。
もっとも、囮として別の事務所に関するメールなども流布された。その内容は芸が細かく巧妙で、出席する場合には「遠くの通りで車を降りてご来場下さい」、「平服のままお越しいただき、事務所内でお着替えください」などの注意書きも付記されていた。そのため、真偽の判断がつかなかったという。
捜査関係者が続ける。
「しかし蓋を開けてみると、そのどちらでもなく佐々木一家で行われることになった。そこに六代目組長も足を運んだ」

同日午前10時過ぎ、高山氏は名古屋市南区の佐々木一家の事務所に入った。そして、その15分後、司組長を乗せた車が到着。組関係者とみられる男性らが、出所祝いの準備のために、風呂敷に包まれた重箱などを次々と運び込んだのである。
警察による主要事務所の使用制限や監視体制の強化のなかにもかかわらず、若頭出所の祝宴はかくして滞りなく開かれたかに見えた。
だが、これが意外な憶測を呼んだというのだ。それというのも、会場となった佐々木一家は弘道会が結成される以前に高山氏が所属していた組織であり、極道としての出発点であったからだ。
警察幹部が語る。
「放免祝いの会場を佐々木一家にしたのは、高山が自らの『原点回帰』を目指している証ではないか。自分の足で立つ――つまり、七代目への就任宣言だったという見方ができる」
高山氏は、戦後間もない1947年に愛知県津島市に生まれた。
一説には、10代にして戦後の闇市を仕切った後、極道の世界へ足を踏み入れたと言われているが、実は野球少年で、地元の高校へも進学していた。ところが、喧嘩を繰り返して中退。賭場などにも出入りするようになり、三代目山口組の二次団体・弘田組傘下にあった佐々木組組長・佐々木康裕氏と縁を持ったことから渡世入りしたのである。1967年のことだ。
弘田組はその前年、1966年に結成された。名古屋港で沖仲仕を仕切っていた三代目山口組傘下の鈴木組組長・鈴木光義氏が引退。これを機に、若頭であった弘田武志氏が鈴木組の縄張りなどを引き継いだのである。結成と同時に弘田組は山口組直参(二次団体)に取り立てられた。
この際、若頭に抜擢されたのが、現山口組組長の司忍氏だった。また、弘田氏は佐々木氏と親子盃を交わし、佐々木組を結成させた。

転機は1969年に訪れた。同年5月、弘田組傘下の組事務所が襲撃を受け、2人が死亡する事件が起きたのである。その2か月後、弘田組若頭であった司氏の指揮で報復戦が実行されたが、高山氏もこれに加わり、懲役4年の刑を受けたのだった。
この功績により出所後、高山氏は佐々木組若頭に就任。1974年に佐々木組が菱心会に改称されると引き続き同会理事長を務める傍ら、自らの組織として山組を結成した。同組は1976年には弘田組直参となり、高山氏自身は1980年、弘田組若頭補佐に就任した。
そして1984年に四代目山口組が発足し、弘田氏が引退すると、司氏が弘田組の地盤を引き継ぎ弘道会を創設。山氏は若頭補佐に横滑りした。
その後、高山氏は1989年に若頭に昇格。2005年には二代目として弘道会を継承し、五代目山口組若頭補佐にも抜擢された。
さらに同年7月、六代目山口組体制に変わると、8月には若頭に就任。司組長が12月に銃刀法違反の罪で収監されたのちは不在の組長に代わって組織運営を担い、弘道会による支配体制を強化した。

以来、2013年に恐喝罪の有罪判決を受け、2014年6月に懲役6年の実刑が確定して府中刑務所に収監されるまで、山口組の実務責任者として君臨。さらに獄中からも指示を出すなど、現体制を支えてきたと言われている。
だが、山口組は高山氏の服役中の2015年に分裂した。
「服役を終えて晴れて出所したいま、自分の不在の間に分裂した山口組を再統合するべく、『自分が立つ』ということを今回、示したのではないか。放免祝いの会場の選択が、そういった意思表示の一つとも見られる。
と同時に、山口組総本部移転の布石である可能性もある。実は山口組は六代目体制に入って以来、かねて本部を名古屋に移そうとしてきた。現在は本部が使えなくなってもいるし、ちょうどいい機会だとふんだのではないか」(前出の警察幹部)
50年余の極道人生の大部分を、若頭として組織を支えることに捧げてきた高山氏。いよいよ自らが先頭に立ち、山口組の指揮を執るのだろうか。