日韓関係の深い暗闇とは……(写真:atakan/iStock)
徴用工問題に関する韓国大法院の判決、日本側の輸出管理強化措置、韓国が日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄する通告――。日韓の関係悪化が安全保障関係にも波及し、貿易・投資関係も縮小している。
日韓の間の信頼関係の喪失、出口なき関係悪化に対し、両国はなすすべがないのか? 日米経済摩擦、日米安保協力・基地返還、北朝鮮外交――交渉によって「不可能」を可能にした、日本外交きっての戦略家・田中均さんが、情勢を見るための“正確な眼”を伝授する。
※本稿は、田中均著『見えない戦争 インビジブルウォー』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。
私は1987年、外務省でアメリカとの経済関係を担当する北米第二課長から朝鮮半島担当の北東アジア課長に異動した。アメリカとの経済交渉は本当に過酷だった。1週間のワシントン出張で2回徹夜することなどはざらだった。北東アジア課も多忙を極めていた。
ただ、当時、北東アジア課の日常の仕事のほとんどは対韓国だった。日韓両国の関係は、当時も決して良好ではなく、この異動は、「熱したフライパンの中から、火の中に飛び込む」ようなものだった。
それまで韓国に行ったこともなく、韓国の人や在日韓国・朝鮮人ともほとんど話をしたことがなかった私は、その歴史を学び、両国間に残る数々の深刻な問題の存在を知った。第2次世界大戦が終わり、日本には日本国籍を放棄した朝鮮半島出身者が70万人近く取り残されていた。彼らは無国籍あるいはのちに韓国籍を取得した人々であり、日本人と同等に扱われるわけではなかった。いわゆる在日韓国・朝鮮人だ。
自分の意志ではなく日韓併合により日本国籍を持たされ、日本が戦争に負けたため日本国籍を放棄し、日本人としての保護が受けられなくなった人々の抱えた問題を解決するのは日本の責務と思った。
外国人登録証明書の指紋押捺制度の廃止やサハリン残留韓国人の韓国への帰還、被爆したのち韓国に戻り原爆治療が受けられなくなった人々の日本渡航治療の支援など数多くの課題に取り組んだ。これらは韓国に要請されたものではない。日本自らが取り組まなければいけない問題だった。
2005年に外務省を退官した後も、日韓の有識者で構成されている、日韓フォーラムのメンバーとして今日まで活動してきた。その間30年余り。
山あり谷ありだった。おそらく、1998年に小渕恵三総理と金(キム)大中(テジュン)大統領の日韓共同宣言が署名されてから2002年にサッカーワールドカップ共催が行われた頃までの時代が、日韓関係の花開いた時代だったのだろう。日韓共同宣言は未来への新しいパートナーシップを宣言し、金大中大統領は積極的に日本文化の解禁を行い、日本では韓流ブームが起こった。日韓ワールドカップを前に羽田―金浦間のシャトル便も軌道に乗った。
小泉純一郎総理の訪朝が2002年に実現し、対北朝鮮太陽政策をとっていた金大中大統領に歓迎された。
ところが今日、日韓関係が泥沼化し、出口が見えない様相を呈してきた。日韓関係がこれほど悪化した引き金は、韓国によって引かれたことは事実だろう。慰安婦問題の合意を覆し、自衛隊艦船へのレーダー照射問題や徴用工問題など日本側には理解ができない事象が相次いだ。
しかし長期的な日韓関係を考えるならば、日韓関係悪化の責任を一方的に韓国に帰することはできない構造的な問題があることにも目を向けなければいけない。日韓関係には深い暗闇があることを、できるだけ多くの日本人に知ってもらいたいと思う。
それは三十数年前に初めて韓国との関係に取り組んだとき以来、向き合ってきたことだ。当時、私がソウルに出張するたびに私のカウンターパートだった韓国の日本担当課長は旧朝鮮総督府の建物を指さし、あの建物は必ず解体すると自らに言い聞かせるように語っていた。
朝鮮総督府は日韓併合後、朝鮮統治のために朝鮮王朝の王宮があった景福宮の景観を遮るように造られた豪壮な建築物だった。1948年の大韓民国成立宣言はここで行われ、以来1983年まで政府庁舎として使用されてきた。植民地時代も植民地後も歴史的建造物なのだが、1995年に最終的に解体撤去された。
この建物はまさにソウル中心部にそびえ立っていたわけで、歴史的建造物として保存することも考えられたようだが、撤去に向かったのはこの建物が歴史的屈辱の象徴だという理由からだ。そこにある意識は反日だけではない。朝鮮総督府の建物は日本による支配だけではなく、何百年にもわたり異民族に脅かされ支配を受けてきたことの象徴と捉えられたのだろう。
朝鮮の人たちが持つ「恨」の意識がそこにある。16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵や、その後は清の侵攻を受け従属し、日清戦争の戦場となり、日韓併合により日本の植民地となった。漢族や蒙古族、そして日本民族の支配を受けざるをえなかったことに対する恨みであると同時に、日本の敗戦という形で日本支配を脱したにすぎず、決して自らの手で自立を勝ちとったわけではないというむなしさだ。
独立後も李(イ)承晩(スンマン)や朴(パク)正煕(チョンヒ)による軍事独裁政権という内なる支配にあったわけで、「恨」の意識は韓国人の心に根深く生き続けているといっても間違いではなかろう。
私が外務省を退官した後のことになるが、親しくお付き合いをしていた金大中元韓国大統領が亡くなる前、「(1973年に)自分が日本から拉致され小さなボートに乗せられ韓国に向かった際、満天の空にたくさんの星が見えた。そのとき、自分は何としてでも民主主義を勝ちとりたいと思った。これまで韓国は決して独立ですら自分の手で勝ちとってこなかったのだから」と述べられたのが印象的だ。
多くの日本人は戦後の日本は平和主義に徹し、世代も変わったのに、なぜかように過去の歴史にこだわり続けるのか、日本は何回謝ればよいのか、韓国の反日意識は未来永劫続くのではないかという受け止め方をする。韓国の日本に対する行動はあまりに無責任で、これは日本が韓国を甘やかしすぎたせいではないかという議論も盛んに行われる。
韓国の意識を短絡的に「反日」と捉えるのは誤りだ。韓国にあるのは根強い「恨」の意識なのだと思う。歴史をめぐる問題が生じると、多くの韓国の人々は「恨」の意識を持つ。それは長年の他民族による支配を脱することができなかった恨み、悲しみ、憤りだ。それは日本に向くと同時に韓国の支配者層にも向けられている。このような長年にわたり、韓国人の心に染み付いた「恨」の感情を理解せず韓国と向き合うことはできない。
歴史の問題を韓国政府も当事者とする形では解決できないのは、その「恨」の感情は日本だけではなく韓国政府にも向けられたものだからだ。それがゆえに日本の責任で解決することが基本とならざるをえないのだ。先に述べたサハリン在留韓国人問題や被爆者問題、そして慰安婦問題もその1つなのだ。