11月9日の「国民祭典」、翌日のパレードともに雅子皇后は涙を見せた。この涙をどのように解釈したらよいのだろうか。それは、皇太子妃として歩んできた歴史と関係しているように考えられる。
1993年1月19日、皇太子徳仁親王と小和田雅子さんとの結婚が皇室会議で決定され、6月9日に結婚の儀が行われた。
徳仁親王の結婚は、昭和の時からマスメディアで大きく取りあげられており、その相手候補の具体的な名前も数多く出された。ワイドショーが盛んに報道された時代、テレビカメラは候補とされる女性たちを追い、そのプライベートを報道した。
週刊誌が大きな力を有して皇太子妃選考報道を展開していった明仁親王(平成の天皇)と正田美智子さんの結婚時以上に、徳仁親王の結婚までは人々の興味関心を呼びつつあったと言ってもよいかもしれない。
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1990年6月29日、弟の文仁親王(秋篠宮)が川嶋紀子さんと先に結婚をしたため、皇太子の結婚相手が決まった時には待望のという思いがあったのだろうか、マスメディアや人々のフィーバーぶりも大きかった。
しかも、ハーバード大学卒業・外務省勤務という雅子さんのキャリアは、1985年に制定された男女雇用機会均等法を体現していると見られた。この法律が社会に定着して女性が積極的に仕事をこなし社会で活躍する、雅子さんは男女雇用機会均等法第一世代の女性のモデルととらえられ、歓迎された。
新しい時代の象徴とも言える女性と皇太子との結婚。それによって、人々の興味関心は頂点に達した。そして、結婚式当日のパレード沿道には多くの人が集まり、そして中継されたテレビの視聴率は高かった。
雅子皇太子妃は皇室会議直後に記者会見で、自身の果たすべき役割は「皇室という新しい道で自分を役立てることなのではないか」と述べた。それが皇太子のプロポーズを受け入れた要因だとしたのである。
外務省の勤務から、今後は皇室で「自分を役立てる」。国際的感覚を有し、そうしたキャリアを積み重ねてきた彼女が、今度は伝統的な皇室を新しい国際化社会に対応させる、そうした自信をこの言葉から読み取ることができるだろう。
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そして結婚後、皇太子と雅子妃は積極的に海外を訪問していく。そうしたいわゆる「皇室外交」の展開は、雅子妃のキャリアを活かすものとしてマスメディアでは報道され、人々もそれを受容していった。
まさにそれは、雅子妃の言葉どおりの展開だったのではないか。そうした状況は、女性が結婚しても外で仕事をするという状況を示したことでもあり、天皇制が変化するのではないかという期待感を持たせることにもつながった。
平成は「開かれた皇室」として、国民に近い天皇制のあり方が模索され、それがマスメディアを通じて伝えられていた。雅子妃の存在そのものが「開かれた皇室」の象徴とも見られたのではないか。
ところが、1999年12月10日に『朝日新聞』が雅子妃の妊娠の兆候をスクープしたころから次第に変化を始める。その後、30日に稽留流産の手術を受けたと発表されたが、マスメディアの過熱した報道に皇太子や宮内庁が疑義を唱えることもあった。
皇太子妃である雅子妃の生む子どもは将来の天皇になる可能性があることから、マスメディアはいわゆる「世継ぎ問題」をも積極的に報道していった。それは、女性の役割は子どもを産むこととするような古い価値観に起因していたように思われる。
つまり、キャリアを活かして仕事を担うことと子どもを産んで家を継続させていくこととの両立がかなり難しいことを予想させたとも言える。おそらくそれは、雅子妃だけが抱えていた問題ではない。社会の状況は変わり、それまでのように家を継続し守るという感覚は若い世代にはなくなりつつあった。
しかし、世間は必ずしもそうではなかったため、同年代の女性も同じような困難に直面したのではないか。そして雅子妃も、自信を持って取り組んでいたキャリアとの整合性が問題となったのである。
2001年12月1日、雅子妃は愛子内親王を出産する。翌年4月2日には皇太子とともに記者会見に臨み、出産に至るまでの自身の気持ちを話すなかで、涙を流した。
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「生まれてきて本当にありがとう」という気持ちからで、「母親になって涙もろくなって」と述べたものの、そこにはいわゆる「世継ぎ問題」のプレッシャーがあったのではないか。
皇室典範では天皇は男系男子しかなることができず、この時も「次は男子を」という声が報道されたこともあった(たとえば、高松宮喜久子妃は『婦人公論』のなかで、「雅子妃殿下に過度の心理的負担をお掛けするようなことがあってはなりません」としつつ、次の子どもの出産(つまりは「世継ぎ」となる親王の出産)にも期待した感想を寄せている)。こうした状況もまた雅子妃にはプレッシャーになったように思われる。
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そして2003年12月、雅子妃は帯状疱疹を発症し、公務を休むことになった。翌年、皇太子が記者会見で、いわゆる「人格否定発言」として大きな問題となる、「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」との発言をする。
皇太子がこうした発言をした背景には、国際的なキャリアを有する雅子妃に対して、それを活かすのではなく、子どもを産むことを優先させる動きがあったからだろう。
その後、雅子妃は適応障害であることが発表され、療養生活を送ることとなった。それは、男女雇用機会均等法の第一世代として自信を持って皇室へ入ってきた雅子妃が、挫折とも言えるような経験をしたと評価できるだろうか。
そして療養中も、様々な困難が雅子妃に直面した。愛子内親王の不登校問題、その後の学校への付き添いが週刊誌などのマスメディアでは批判の対象となった。皇太子一家に対する不満から、皇太子夫妻の離婚や廃太子を主張する論者もあらわれた。
こうした皇太子夫妻のあゆみは、右肩上がりの昭和から分断社会となった平成という社会の展開とも符合しているように思われる。閉塞感ある社会とともに生きる存在だったと言える。
しかし、平成の天皇の退位が近づいたころから、皇太子・雅子妃に関する好意的な報道も次第に増え始めた。令和になり、雅子皇后への注目はより集まっている。人々に触れあうときに笑顔を見せ、積極的に会話をする皇后は、病気から回復したようにも感じられる。
そうした「復活」を歓迎し、人々はそのキャリアを活かした活動が行われるのではないかと再び期待しているのではないか。
ただそれだけでもないようである。東日本大震災の被災地で被災者と向き合う姿は、皇族として見舞うというよりも、どこか同じように苦しんできたことを共感し合うようにも見える。人々は、雅子皇后が来てくれてありがたいというよりも、一緒にこれまでの苦労を分かち合っているのではないか。人々も、目の前にいる雅子皇后がこれまで困難を抱えてきた存在であることを知っているからである。
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だからこそ、雅子皇后は涙を流したのである。国民祭典では、人々は天皇の即位を祝い、皇居前広場を訪れた。
そして、嵐による「奉祝曲」は徳仁天皇の研究テーマである水をテーマに、これまでの歩みを歌っているかのようにも思える。「僕らは君のそばにいる」という歌詞は、国民と寄り添うという天皇の姿勢とも符合する。雅子皇后は、人々が自身を励ましてくれているように感じたのではないか。
翌日のパレードでも、多くの人々が沿道に集まり、そして天皇皇后に声をかけた。自分たちのためにやって来た人々の声を聞き、まさに励まされたのだろう。だからこそ雅子皇后は涙した。
12月9日、56歳の誕生日を迎えた雅子皇后は、「多くの国民の皆様から、思いがけないほど本当に温かいお祝いを頂きましたことに、心から感謝しております」「多くの方々から温かいお気持ちを寄せていただいたことを嬉しく、またありがたく思い」「これからの歩みを進めていく上で、大きな支えになってくれるものと思います」との感想を寄せた。国民に励まされる皇后の姿と言えるだろうか。
この涙は、雅子皇后のこれまでの歴史を凝縮したものであるとともに、これからの人々と天皇皇后の関係性を象徴するもののように思えるのである。