【堀井憲一郎】大学入試国語、問題文の著者本人が自ら解いて気づいた「読解力」の本質 コツも教えちゃいます

入学試験の国語の問題は、著者には解けるのか。ということは、ときどき話題にされることがある。
つまり夏目漱石の『明暗』が国語の問題文に出されたとき、夏目漱石本人はその問題を解けるだろうか、「著者の考えを選べ」という問題に漱石は正答できるだろうか、という問いかけである。そういう雑誌の企画をずいぶん昔に読んだことがある(現役の作家が挑戦していた)。
主旨はわかるのだが、何だかいくつかの誤解が積み重なっている風景に見える。
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私の文章も何度か入学試験で使われたことがある。
入学試験で文章が使われる場合、事前の通知はない。当然である。
バカ田大学の社会学部から、あなたの文章を入試に使っていいかという許諾を求める連絡が、事前に来ることはない。事前に知ったら、私がまわりに言ってまわるかもしれず、知り合いにだけこっそり教えるかもしれない。国語の問題文が事前にわかったところで、さほど本番には影響しないだろうが、それでも公平性に欠ける。
使用されたことは事後通知でわかる。
だいたいは入試が終わったあと、「問題と正答例を公表したいのだが、いいだろうか」という問い合わせがくる。大学(や高校や中学)から直接くることもあるが、その問題の解答例を出版している会社から連絡が来て初めて出題を知ることもある。
返信封筒が入っていて、必要事項を書き込み、返信する。些少ながら謝礼が出ることが多い。ほんとに些少で、手取り890円くらいだったりするが(1000円の謝礼が源泉徴収されている)、でもまあ少しお金が出るんである(解答例冊子に掲載する謝礼である。試験問題使用の謝礼ではない)。
この手の案内が来たら、開封したその場で書いてすぐ返信するようにしている。一度、すぐ書いたのはいいがその封筒が机上の書類にまぎれ、ずいぶんあとになってから発見したことがあった。あわてて投函して、たぶん間に合ったんだとおもう。
「赤本」の国語の問題で、ときどき第一問のあとに第二問が抜けて第三問の古典文になってることがあるが、あれはたぶん著者の許諾が得られなかった(許諾書が届かなかった)結果だとおもわれる。こんな入試にこんな使いかたをするとはけしからん、と先生が怒って許さなかったこともあるだろうが、何割かは「あ、返事だすの、忘れてた」という凡ミスもあるのでないか、とおもう(完全に勝手な推測です)。

問題文が送られてくると、やはり気になるから自分で解いてみたりする。
自分の文章問題を自分で解くといろんなことが見えてくる。
それについてちょっと解説してみる。
「著者の考え」という言葉が設問に含まれる問題を見てみよう。
2012年のある女子大学の問題である。引用されたのはちくま新書の『いますぐ書け、の文章法』からだった。

「みんな「オリジナル」に対して過剰な信仰を持ちすぎだとおもう」から始まる文章だ。
オリジナルな作品というものは過去を踏襲したところからしか生まれないから、オリジナルの文章を書きたいなら、過去の名作、名文を暗記するほど読め、という主旨の文章である。なるほど。たしかに高校生に読んでもらいたくなる文章かもしれない。自分でいうのはどうかとおもうけど。
その第七問は、「筆者の考えに合致しているものを、次の中から一つ選び、記号で答えなさい」というものだ。ア、イ、ウ、エ、オの5択になっている。
5つも選択肢がある場合、本文を読まなくてもすぐさまはずせるものが2つ入っている。それがセオリーである。
ここでも本文の論旨とまったく違うものが2つ入れてあった。
ア「名文とは細部まで完璧に作られた文章のことであり、、、」イ「すぐれた文章は、知らず識らず、他人の書いた文章を引き写すことで成立するのであり、、、」
この2つは、即座にはずせる。
細部まで完璧に作られた文章、というのはそもそも存在しないし、他人の書いた文章を引き写すことですぐれた文章が成立する、なんてこともありえない。解答文を読んでるだけで違うとわかる。
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あらためて、試験問題の5択というのは、この間違った選択肢の文章を考えるのがキモなのだなとおもう。作者の文章のトーンに似せながらも、作者が言ってないことを4つ作らなければならず、これはこれで大変な作業だと、いま引き写しつつ実感した。出題者としては選択肢問題より、記述式問題を作ってるほうが楽だろう。そのぶんあとが、つまり採点が大変になるんだけど。
さて残り3つの選択肢は、文章自体には破綻がない。
そこから正解を選ばないといけない。
こんな三つである。文章を要約して(少し変えて)紹介する。
ウは「プロ文章書きは、多くの人に読まれることを緊要としている」。エは「名文を多く暗誦する人は名文を書ける可能性が高い」。オは「よい文章を書くにはよい文章を読め、ということ自体、文章作法のパターンを踏襲している」
三つとも間違っていない。そういうようなことをこの新書のなかで私は言っている。
では、ここから正解するためにはどうすればいいか。
解答者の私は、著者の考えを類推すればいいのか。著者本人だから、そのぶん有利なのか。
ちがう。
まったくちがいますね。
世間の誤解はそこにある。久しぶりに本気で入試問題を解いてみてわかった。というかおもいだした。
設問者が聞いているのは、著者の私の本当の考えなどではない。
いまここに出されている問題文から何を読み取れるか、それを問うているのである。
著者であろうと、自分の勝手な考えを書いても(選んでも)正解にはならない。
文章を書いた本人であろうと、問題を解くなら、いまいちど問題文を精読するしかない。

それで気がついた。
受験生のときから、現代文は得意だった。
もともと好きだったが、途中からものすごく得意になり、選択肢問題ではほぼ間違えることがなかった。その感覚をおもいだし、その理由もいまわかった。
私が対峙しているのは、出題者である。
この「問題を作った人」が何を考えているのか、ただただ、それだけを考えて読めばいいのだ。極端な話、著者なんかどうでもいい(いいわけじゃないんだけど、でもまあ極論すればそうなる)。
だから著者本人が、自分の文章を引用された問題を解こうとしても、そのシステムをおもいださないかぎり、正解できないことがあるのだ。しかたがない。
自分の文章の問題文を読んでるからこそ、すごくわかった。
もともと現代文問題が得意で、その解答するためのスイッチが入ったとたん、私の頭は「この問題を作成した人の意識」にロックオンするばかりである。この文章を書いた人(私です)のことなど考えもしない。自分の身体の奥まで刻まれた“現代文を解くマシーンぶり”にも驚くが(40年近く使ってなかったが、スイッチを入れたら突然、作動した)、でもそういうことである。
著者の考えは「遠い風景」である。遠いところに置いてある「ばかでかい絵」を描いた人と考えてもいい。
遠くに絵があって、それより近い場所に出題者がいて、その風景を(ばかでかい絵画を)勝手に切り取って、その一部分だけを見せる。出題者は意図をもって切り取り、一部分しか見せてくれない。
そして「何が見えますか」と聞いてくるのだ。
これが読解問題である。
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もともとの遠い風景(ばかでかい絵画)を描いた人のことも意識しないわけではないが、大事なのはその中間に立って「風景(絵)を切り取ってる人」であり、その切り取りの意図である。そっちをまず強く意識しないといけない。
そして、それを意識できるようになって以降、私は現代文(読解問題)で間違えたことはほぼなかった。自分でいうのも何だけど、極意を会得した剣豪みたいに解けた。まあほんとに剣豪時代くらい昔の話ですけど。
受験生のときは、そういう言語化はせず、水に入ったらすっと泳ぎ出すように、自転車にまたがるとすぐ漕げるように、問題文を見たらやることが自然にわかって、頭がそう動いていた。頭脳を使ってるとはいえ、身体的な能力である。だから40年経っても作動する。受験生の態度に戻ったら「身体が勝手に動いた」のだ。この場合の身体は脳ですけど、でも筋肉みたいなものだなあ、と感じる。
解答者は出題者の頭の中を類推しなければならぬ、といま、そう言語化できたのは、時間が経ったからだろうし、ものを書く仕事をしてるからだろう。なるべくシンプルに言えばどうなるのか、ということを毎日やっているからだとおもう。
これが問題文に向かう基本姿勢である。

それとは別に言語化されてないもうひとつルールがある。
「問題文の文章だけを根拠にする」。
そういう明確なルールがある。それをもとにゲームが始められている。
いま見せられている文章がすべてである。そこに書いてあること以外はいっさい想像もしないし、新しい可能性を考えてもいけない。そういうルールがあるのだ(多くの人はわかってるとはおもうんだけど、いちおう)。
ウ「プロ文章書きは、多くの人に読まれることを緊要としている」。エ「名文を多く暗誦する人は名文を書ける可能性が高い」。オ「よい文章を書くにはよい文章を読め、ということ自体、文章作法のパターンを踏襲している」
著者の私としていえばこの三つとも、たしかにそう考えている。問題文以外のところではたしかにそう書いているのもある。
だから、著者の私としていえば、三つのどれでもかまわないことになってしまう。著者というのは入試問題の前ではずいぶんぼんやりした存在でしかない。
解答者の私は、即座にチェックに入る。
問題文をいま一度、精読する。一種の捜査である。
選択肢を踏まえたうえで、それと同じ意味の文章が本文中にあるかどうかを探す。そういうゲームだし、そういうゲームでしかない。
受験参考書などには、このことについて、「答えは問題文の中にある」と解説してるようにおもう。いま、感じるのは、その説明だとかなり足りてない、ということだ。言い方がやさしくて、伝わりにくい。私もそういう解説を読んだ覚えがあるが、いま自分のつかんでる方法のことだとはおもってなかった。いろいろむずかしい。
わかりやすくいうなら、類推の禁止、想像の禁止である。そういうルールがある。この作者なら、こういうことを考えそうだ、と想像してはいけない。本文中に明確に書いてあることだけ、そこだけからしか答えない。
ただ、選択肢の文章は、本文とまったく同じ文章ではない。必ず言い換えがしてある。
語順が逆だったり、論理的展開を結論から述べさせようとしたりする。同じ意味の違う言葉に変えてあったりもする。

その「言い換え」を見破るゲームでもある。
記述式の場合は、本文の文章をそのまま使って書く。
だから短い文字数の記述文は、ほぼ必ず同じになる。「本文中に使われてる言葉」で「本文の論旨にのっとって」要約する作業なので、まずブレない。記述式というと幅広い回答があるように夢想してしまうが、ルールを守っているかぎり、そんな文章は書かれない。ルールが明文化されてないだけだ(最近問題になっている記述式のばらつきは、また、別の問題である)。
この問題の正解は「エ」である。
ウの“プロ文章書きは、多くの人に読まれることを大事である”という主旨のことは書かれているが、それを「緊要」とは言ってない(差し迫って重要だとは言ってない)。だから違う。
オは、“よい文章を書くにはよい文章を読め、それはいろんな文章作法の本にも書いてある”とは書かれているのだけど、“それが文章作法のパターンを踏襲している”とはなっていない(言われてみればそういうふうに考えられるけど、ここには書いてない)。
だからエである。
書いてあるか書いてないかをチェックするだけのゲームだ。
想像禁止。類推禁止。そういうルールである。
そんな問題を解いて、文章力が育まれるのか、というのは別の問題である。
とりあえず、表現力より前に、読解力が身についてないといけないと考えるのなら、必要な問いである。こういうゲームをこなせる基礎訓練がなされてから、次の段階で表現力をみる、という考えからだろう。あながち間違ってはいない。

この先、入試改革によって解答方法などが変わってくるようだが、基本ルールは同じである。
どんな問題だろうと、対峙するのは「出題者の考え」である。
そして「問題文」に書かれてることだけから答えないといけない。書かれてないことを根拠にしてはいけない。
それは変わらない。
ただ、これからはその先を求められていくようだ。
この手順を済ませたあと、その先でまだ論理的な意見を組み立てないといけなくなる、というのがこれからの入試改革のようだ。しかも問題文が複数だったりするらしい。手順がかなり増える。とはいえ、解答は、ある程度パターン化したものを書けばいいはずだが、手順が増えるのはたしかである。正解への階段数が増えてしまう。
これからはそういう思考方法ができる人しか生き残れない、という未来予測なのだろう。
いろいろなかなか大変である(採点が揺らぐのはデータが少なすぎるからだろう。早くいろんな型の問題を出して、解答パターンを膨大に集めて集計するしかない)。
試験問題というのは、多くの人間が同じ問題を読んで、ルールを理解して(ルールを類推して)、そのルールに沿って解けば同じ答えにたどりつく。そういうものが作られている。
読解力の問題は、そういうルールの存在に気づいているか、自分のなかでそういうルール作りをしてきたのか、ということも問われているのだ。

「出題者の意図だけを考える」「書いてある本文以外を絶対に根拠にしない」というのは読解のコツだとおもう。
ただ、このコツだけで解けるわけではない。その前段階の読解訓練をしていないと役に立たない。たとえば、文章を早く読もうとするクセがついていると難しい。とくに飛ばし読みをする人は完全にアウトである。一言一句を逃さないよう、すべての言葉のつながりを読み落とさないよう、全神経を集中して本文に読み切るようにしないと、このコツは使えない。
息を詰めてあらゆるものを遮断して、本文を読み、切り取られている意図を考えながら、読む。私のなかでは、息ができない水の中をゆっくり歩いてるような感覚になる(これは私個人の感覚である)。そうしないと読解スイッチが入らない。
まあ、運動部の練習のようなものである。人生の早い段階でそういう能力を持っていれば、残りの人生で少しは役に立つだろう、ということである。息を詰めて全文全語を読む訓練をしてから、のちに飛ばし読みの訓練をすれば、速読が可能である。逆はむずかしいとおもう。