【杉山 春】目黒区虐待死事件、「もうおねがいゆるして」反省文は母娘共作だった 母・優里が書いた「獄中手記」の中身

2018年3月東京都目黒区のアパートで、当時5歳の少女・結愛ちゃんが命息絶えた。十分な食事を与えられておらず、父親から暴力を受けていたことによる衰弱死だった。父親とともに逮捕され、第一審で8年の実刑判決を下されたのが母親・優里(27歳)である。なぜ、夫の暴力を止めることができなかったのか、なぜ、やせ衰えた娘を病院に連れていけなかったのか、なぜ、誰にも助けを求めなかったのか…そうした疑問に自ら答えた『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』がこのたび上梓された。手記から浮かびあがる事実とは何か。同事件を取材し、獄中の優里被告と面会を重ねてきたジャーナリスト杉山春氏が解説する。
優里は、小さな部屋の、透明な仕切り板の向こうにグレーのスエットの上下を着て、黒髪は真ん中で分けてきれいに切りそろえられ、座っている。法廷で黒いパンツスーツで座っていた時よりも、少し幼く見える。
「私は無知で、被害者ではなく加害者で……。言い訳に聞こえたら困ります。でも、結愛のことを生かしてあげたい。そんなふうに思って、できるだけ起きたことをお話ししたいと思いました」

頭のてっぺんに、短い髪がツンツンと立っている。逮捕後の精神状態が悪化していた頃、頭頂部の髪を無意識に抜いてしまう症状があったそうだ。その部分の髪が少し伸び始めているのかもしれない。
それにしても、化粧っ気がないので、どこにでもいる、素朴で可愛らしい若いお母さんにしか見えない。そんな彼女が、なぜ社会を騒がす存在になってしまったのか。
2018年3月、東京・目黒区の自宅アパートで5歳の少女、船戸結愛ちゃんが無残な死を遂げた。
直接の死因は、肺炎からの感染症である敗血症だ。だが、死亡時の体重は12・2?。38日前に香川県から上京してきて以来、4?以上落ちていた。体には170か所以上の新旧の傷やアザがあった。
結愛ちゃんは、香川県時代、2度も行政から一時保護されていた。警察当局は虐待死事件として扱い、18年3月に元夫で結愛ちゃんの元養父・船戸雄大を、6月に優里を逮捕した。
雄大は保護責任者遺棄致死罪、傷害罪、大麻取締法違反で起訴され、2019年10月、懲役13年で刑が確定。母親の優里も、衰弱した娘を病院に連れて行かなかったとして、保護責任者遺棄致死罪で起訴され、9月に懲役8年を下された。本校執筆時点では、控訴中である。
〔photo〕優里が書いた手記の一部
審判決後、私は優里に計10回面会した。毎回、透明板越しの彼女は、精一杯自分の気持ちを見つめ、事実を正確に語ろうとした。
もっとも手記にもあるように逮捕からしばらくの間は、何度も拘置所内で自死を願い、首にズボンを巻き引っ張るなど試みたこともあったという。

この一家に日本中の関心が注がれたのは、わずか5歳の少女、船戸結愛ちゃんが虐待死したという衝撃とともに少女が両親に宛てた「反省文」が遺されたからだろう。
〈もうパパとママにいわれなくてもしっかりと じぶんからきょうよりか もっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします ほんとうにもうおなじことしません ゆるして(略)これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから もうぜったいぜったいやらないからね わかったね ぜったいのぜったいおやくそく(略)あしたのあさはきょうみたいにやるんじゃなくて(略)パパとママにみせるぞというきもちでやるぞ えいえいおー(後略)〉
両親に許しを請う少女の文面は、けなげで痛々しい。このことが報道されると、多くの人々が一家が住んでいたアパートを訪れ、手を合わせた。死の直前の結愛ちゃんは、過酷な生活を強いられていたと報道された。
〔photo〕優里被告と結愛ちゃん。地元・香川県の海岸にて
午前4時に自らセットした目覚ましで一人起床。その後、九九や平仮名の練習。食事にも制限が加えられた。朝はスープ1杯、昼はご飯茶碗3分の1、夜はご飯茶碗2分の1。言うことを聞かなければ、それが1日1食となる。
ルールに背くと雄大から執拗な説教があったとされる。それを、優里が半ば黙認していたかのように伝えられた。だが、事実は少し違う。

例えば反省文について、優里は、「逮捕後、(警察から)手紙を見せられて、何これ、って思いました」と語る。
優里に反省文の記憶はなかった。だが、見せられた現物には優里の添削の跡があった。たとえば「つ」を赤ペンで小さい「っ」に直してある。
文面に思い当たることはあった。香川県時代、優里自身が、雄大から毎日のように長時間の叱責を受けていた。その後毎回、LINEで叱ってくれてありがとうという感謝の言葉とともに反省文を送った。雄大を怒らせると、説教がさらに長くなるため、文面は何度も練り直した。その文章によく似ていたという。
「文章を思い出そうとするうちに、結愛が椅子に座っていて私が右隣に座り、赤ペンを入れていた時のことが、写真のようにパッと浮かびました」
雄大に長時間説教をされた結愛ちゃんを見かね、それ以上叱責されないように、優里が「こう書くと雄大が怒らない」と二人で一緒に書いた可能性があるという。結愛ちゃん独自の文章ではなかった。添削したのは、誤字が新たな説教を呼び起こすからだ。
ちなみに〈あそぶってあほみたい〉という文章は、5歳児には不自然な表現として話題になったが、もとは優里自身の反省文の一節だと思われる。結婚前、結愛ちゃんと隣町の動物園に行くなど自由に過ごしていたことを雄大に咎められ、謝ったという。 また、書き込まれた〈わかったね〉という言葉は雄大の口癖だった。反省文からは、結愛ちゃんへの虐待とともに、優里と雄大の歪な夫婦関係も見えてくる。

手記にも書かれているように、優里の最初の夫は、地元・香川での中学時代からの部活仲間だった。12年に2人とも19歳で結愛ちゃんを授かると同時に結婚。だが、経済問題などから14年に離婚した。その後、シングルマザーとなって水商売に勤め、ボーイとして働いていた雄大と出会う。
8歳年上の雄大は物知りで、人脈が豊富。優しかった。しかも丁寧に優里の話を聞いて、間違いを指摘してくれた。
「前の夫にお金をせびられたり、いろいろなことを頼まれたりするたびに、何とかしてあげようとする私に、それは男に利用されているのだと説明してくれたのは、彼でした」
雄大は、結愛ちゃんをかわいがった。結愛ちゃんも懐いていた。雄大は、保育園への送り迎えにも一緒につきあってくれた。結婚を考え始めた時には、結愛ちゃんをどんなふうにしつけようかと将来を話し合った。そして妊娠。16年4月に結婚した。 すると「生まれてくる赤ちゃんのためにもしっかりしつけろ」と、急に結愛ちゃんへのしつけを厳しく求めてくるようになった。同年9月、夫婦は長男をもうけた。雄大は実子の息子をかわいがる一方、結愛ちゃんにはさらに厳しくなった。
11月、結愛ちゃんのお腹を、雄大がサッカーボールのように、蹴り上げた。そばにいた優里には、何が起きたのかわからなかった。その瞬間を手記では、〈心をおおっているものにひびが入り、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。(略)腰を抜かしたような感じで立ち上がれず、どれくらい時間が経ったろうか、ようやく泣きながら「やめて」と叫べた〉と述べている。
大量の涙が溢れ、かろうじて「やめて」と言えた。すると、雄大は「お前が泣いている意味がわからない。結愛が悪いんだ、直さなくちゃいけない」と、延々説教が始まったという。この年の12月と翌17年3月に2度、結愛ちゃんは一時保護された。
1度目の保護では、雄大は体罰を認めたが、2度目の保護では認めなかった。それぞれ結愛ちゃんは家に帰され、雄大は12月に不起訴になった。17年12月、まず雄大が仕事探しのため東京に転居。年明けの1月、優里は二人の子を連れて、合流した。そして悲劇は起きた。

事件を検証していく上で、誰しも思うのは、2度も一時保護されていたのに、なぜ行政や警察は、結愛ちゃんを救えなかったのか、という点だろう。その疑問は、当然、転居するまで児童相談所や医療センターに関わっていた優里にも向けられている。実は、そのこと自体が、本人にとっても知りたいことだ。
起きたことに向き合うことは、何よりも勇気を必要とする。今、この時点で精一杯勇敢に、自らの言葉で振り返ったのが、この手記だった。