死者・行方不明者43人を出した大火砕流を含む1990年から約5年半続いた長崎県雲仙・普賢岳の噴火災害で、雲仙岳災害記念館(同県島原市)が住民が撮影した当時の写真を募集している。既に200枚超集まった写真には、噴火の猛威が記録されている一方、未曽有の災害下で生きた市民の姿が垣間見える。3日で大火砕流から29年となった。時の経過で災害の記憶が薄れる中、関係者は写真を通じた継承を願う。
普賢岳は90年11月17日、198年ぶりに噴火した。翌年になると、報道関係者や火山研究者らが噴火災害を記録しようと現地に集結した。しかし、91年6月3日に発生した大火砕流は、撮影場所だった同市上木場地区の「定点」周辺で消防団員や住民も巻き込んだ。噴火災害は96年6月の終息宣言まで、断続的に発生した火砕流や土石流が住民の生活を襲った。
2020年は噴火から30年の節目にあたるため、同館が当時の写真を一般公募したところ、4~5月に住民15人から計213枚が寄せられた。故人が撮影した分は遺族が寄贈した。
写真には、火砕流で焼失した家屋や土石流の被害を受けた町並みなどが生々しく記録されている。大火砕流にのみ込まれる前の、葉タバコなどを作る平穏な集落だった上木場地区の写真もあった。同館の学芸員、長井大輔さん(45)は「多様な場所から撮影された噴火の猛威を伝える貴重な資料だ」と語る。
噴火活動のさなかでも運動会やゴルフなど日常を過ごした市民の姿も残されていた。島原市の山田スミコさん(81)は小学校の教師だった92年9月、運動会中に発生した火砕流をカメラに収めた。噴煙を背に紅白帽をかぶる児童たち。「ドン」と大きな音がして噴煙が立ち上ったが、風上だったため、運動会を続行したという。
山田さんは「子どもにも動揺はなく『慣れ』があった。普段の生活の延長に噴火があった」と振り返る。撮りためた写真は約2000枚。「私も含めて災害の記憶は風化する。でも山に学び続けないといけない」と思い、同館にフィルムも預けたという。
当時の警戒区域などは今も立ち入ることはできず、あの日から約30年、人の営みが続いた場所では土石流にのまれた町並みは残っていない。長井さんは「それでも普賢岳と共に生きていく限り、あの日々を記録して、何度でも振り返らないといけない」と話す。
写真は7月5日まで、同館で展示される。写真は引き続き募集している。問い合わせは同館(0957・65・5555)。【今野悠貴】