生後8カ月で逝った妹 原爆死没者名簿に今年記載 78歳「やっと弔えた」

午前8時から営まれた平和記念式典。神奈川県の遺族代表として参列した柴田実智子さん(78)=同県小田原市=は、松井一実・広島市長が「安らかに眠って下さい」と刻まれた慰霊碑に原爆死没者名簿を納める姿をじっと見つめた。名簿には、被爆後間もなく生後8カ月で亡くなった妹和子さんの名前が今年、ほかの4942人とともに記された。
原爆が投下された1945年8月6日、当時3歳だった柴田さんは爆心地から南東に約3・5キロ離れた広島市東雲(しののめ)町(現南区)の親戚宅で被爆した。爆風で吹き飛んだ茶わん、遺体を運ぶ人……断片的な記憶だけが残っている。
体が弱かった妹は、爆心地から南に約3キロの病院に入院していたと、のちに姉から聞いた。病室は爆風で天井がはがれ落ちたが、病室を少し離れていた母が戻ると、既に別の患者に助けられた後だった。まもなく病院には多数の負傷者が押し寄せた。けがのなかった妹は退院を余儀なくされ、2週間ほどして自宅で息を引き取った。覚えているのは、押し入れの上段に敷かれた布団に寝かされた、弱々しい姿だけだ。
妹が亡くなり、7人きょうだいの末っ子として育てられた。地元の高校を卒業後、23歳で米国に暮らす日本人男性と結婚し、海を渡った。長男を授かったのちに帰国し、小田原市に移り住んだ。育児をしながら不動産会社で働いたり、飲食店を経営したりする中、妹のことも、原爆のことも顧みる余裕はなかった。たまに広島のきょうだいと会っても「せっかくの機会なのに、原爆の話なんてしたくない」と思っていた。
だが、広島出身と知った人に勧められて被爆者健康手帳を取得し、50代で被爆者らでつくる「小田原市原爆被災者の会」に関わるようになった。60代後半で退職後、紙芝居などを使って小学生に原爆のことを話す活動もするようになった。
被爆75年を前に遺族代表としての参列を打診された際、広島市に確認し、妹の名前が原爆死没者名簿に書かれていないことを知った。「被爆して亡くなったことを残したいと、家族の誰もが思わなかったのだろう」。市に申請し、6月に名簿に記された。現在、名簿に記載された人は32万4129人に上る。「原爆と関係なく死んだとされてきた妹を、やっと弔うことができた」。75年の年月をへて、安堵(あんど)の表情を浮かべた。【手呂内朱梨】