「もうすぐ10年になるんだね」
岩手県釜石市鵜住居にある「釜石祈りのパーク」。東日本大震災で津波にのまれるなどして亡くなった人たちの名前が刻まれた「芳名板」がある。市内に住む、美容師、片桐浩一さん(51)が訪れた。妻で、当時、鵜住居幼稚園の臨時職員だった理香子さん(当時31)の名前もあり、訪れるたびに「芳名板」を撫でている。そのため、色が若干、変わっている。
「釜石祈りのパーク」は、「鵜住居地区防災センター」があった場所付近にある。理香子さんは、もうすぐ生まれるはずだった陽彩芽(ひいめ)ちゃんを身籠もっていた。妊娠9ヶ月だった。3月14日から産休の予定だった。
安全性を誤認されていた「仮の避難場所」
理香子さんが勤務していた鵜住居幼稚園は、防災センターに隣接していた。津波警報が鳴り響く中で避難をした。そして「防災センター」の2階にある「第一研修室」に避難していたと思われている。防災センターには200人以上が避難し、162人(市推計)が亡くなっている。本来ではあれば、「防災センター」は、津波が発生した場合の避難施設ではない。あくまでも、「避難訓練のための仮の避難場所」だった。しかし、地域住民の避難訓練でセンターが使用されていたために、「センター=避難所」と意識され、2010年のチリ津波でも、多くの住民が避難していた。
市の検証委員会によると、防災センターは、過去の津波の浸水域にあった。しかし、2007年7月の住民懇談会で、市側は「標高は高くないし危険なところという議論はあったが、浸水の可能性はあっても2階までは来ないだろう」という認識を示した。ただ、検証委の調査対象は地域住民の避難だけ。市の職員の避難行動は対象外だ。
鵜住居幼稚園には、当日は約60人の園児が通っていた。しかし、地震があったときには大半の園児は帰宅していた。園舎には園長や教諭の5人と、園児4人がいた。このうち園児2人は保護者が迎えに来た。教諭4人は園児2人と近くの防災センターに向かっていた。園長は市教委と連絡を取るために園舎に戻った。結果、園児2人は助かったが、園長と教諭3人が犠牲となった。園長は園舎の中で亡くなった。理香子さんを含む教諭は「防災センター」で亡くなったと思われる。
センターの瓦礫を利用した「祈りのパーク」
その「防災センター跡地」であることを示す碑はあるものの、具体的に、どこに建てられていたのかはわからなくなっている。「幼稚園」の痕跡もない。防災センターは解体されたが、命日に花や缶コーヒーを置いていた場所もわからなくなっている。ただ、「祈りのパーク」には、解体したセンターの壁の瓦礫が利用されている。
「祈りのパーク」に隣接して、震災伝承と防災教育のための施設「いのちをつなぐ未来館」がある。その中には、「防災センター」に関連する展示もある。津波到達地点を示す2階の壁の一部を見ながら、片桐さんは「屋上に上がれていればよかったんだろうけど」とつぶやいた。津波は、センターの2階の天井付近まで達した。誰もが屋上に上がれる設計ではないが、そうした設計だったら、死亡者は少なかったのではないかという思いがあるのだろう。
「でも(地震発生時に)園にいた子どもたちは助かったからね。そこが一番なんだろうけど。ただ、(鵜住居幼稚園の記載部分に)3名死亡と書いてあるが、あまり見たくないですね。しょうがないけど」
“10年の節目”というけれど「どこで節目をつければいいのか」
発災から10年が経つ。どう感じているのだろうか。
「10年経っても変わらないね、正直。マスコミは“10年の節目”という言葉を使うけれど、どこで節目をつければいいのだろう。その言葉自体がわからない。何も、(当時と)かわらない。そこにある、嫁の存在も変わらない」
筆者はこれまで片桐さんと取材を通じて話をしてきた。理香子さんがそばにいる感じがするという話をしていたが、10年経っても同じなのだろうか。
「正直に言えば、自分自身の仕事であったり、新型コロナの状況もあったりで、忙しさのなかで感じないこともあるし、逆に、頼ることもある。『いま、こうなんだよ。助けてくれないか』って。神頼みではないけれど、そう思うことがある。実際、(美容室の)経営は厳しい。疲れたときとかに頼ります」
震災10年は、昨年同様に、コロナ禍の中で迎える。美容室という客商売は、新型コロナとは相性がよくない。
「コロナで苦しくなることは正直あった。美容室は、人との交流があって、新型コロナに感染しやすいと言われましたから。だから、お客さんは美容室の利用を控えました。いつ来店するのか、読めなくなったんです。女性も来店を控えますし、男性も家族に言われて来なくなりました。髪を染めるのは自分で。髪を切るのは我慢する、という感じです。市販のヘアカラーが売れているというのはそういうことでしょう。だから、業界的には付加価値をつけないといけないですね」
『怖かった』ということを知ったほうがいいのではないか
2月13日には、福島県沖で地震が発生した。気象庁によると、マグニチュード7.3。釜石市の震度は4だった。東日本大震災の揺れほどではないが、多くの被災経験者が、当時を思い起こしたと言われている。
「10年前に引き戻されました。震度は4だったけれど、揺れが長くて、当時と似ていたんです。揺れが長く、そのときの感覚になりました。お客さんの話でも、津波がくると思って高台へ逃げた人もいますし、設置されるはずの避難所の場所まで逃げた人もいました。(東日本大震災の)経験が生きているんだなと思いました。何を持って逃げようかと思った人もいたようです。ただ、10年前に比べて、情報が早くなりました。今回はものすごく早い段階で『津波の心配はありません』と出ましたね」
震災後、片桐さんは、津波教育について、ことあるたびに言及している。現在はどう思っているのだろうか。
「言い方はおかしいんだけど、一番感じているのは、地震がありましたというトラウマがあるとか、津波を見て子どもが恐怖を覚えている、と聞いたりします。でも、それを言っていたら、助からないのではないか。怖いという状況を伝えないといけないのではないでしょうか。子どもに津波の映像を見せたくない親も多いけれど、『怖かった』ということを知ったほうがいいのではないか。そうではないと命を守れない。『てんでんこ』は散り散りになって逃げろということ。昔、津波災害を経験した人がその言葉を残したんです。でも、経験してない人が覚えていない。怖さを知らない。怖さを教えることが必要だと思います」
理香子さんが経験した津波を見たい、という思い
では2月13日の地震で、片桐さんはどう行動したのか。
「俺は、何もしなかったですね。やばい、逃げなきゃいけないという感覚になったけど、そのままでいた。今の自分の命が尽きてもなんの問題もないし、後悔もない。だから動かなかった。(理香子さんが)経験した津波を見たいというのもある。もし、生きていたら? 多分、『(逃げないのは)バカじゃないの?』と言うと思う。でも、あの人がいないから。あの人の経験したことを、苦しかったことを知らずにいるのは、自分の中では許されない。そんな思いをさせてしまったんです。自分が殺したわけじゃないけど、償えない。今でも、自分の責任と思っています」
ただ、当時は、片桐さんは釜石市の市街地にある美容室で仕事をしていた。理香子さんが働いていた鵜住居地区の鵜住居幼稚園までは車で15分ほどだ。当日の震度は6弱。店内のものは崩れていた。他の従業員を帰宅させ、自分のアパートが気になったために、帰ろうとした。店を出ると、アーケードの上に瓦礫が流れてくるのが見えた。家の屋根などが黒い水に押されて来ていた。当時の状況で、なぜ責任を感じるのか。
10年経っても「たられば」を思っている
「震災の日、『頭が痛いから休んで』と言っていればよかった。『具合が悪いから面倒みてくれ』と言えばよかった。もちろん、頭が痛いわけではないし、(理香子さんは)仕事を休んだことがないので、仕事へ行きました。でも、“そこにいる”理由があればよかったです。もちろん、何か言っていたとしても、『がんばれ』と言ったかもしれない。でも、なんか責任を感じるのが年々増えてきているんですよね。なにかしら、守れる、守ることができたのでは?と思ってしまう。でも、守れる手段はなくて。それに、自分と一緒の生活を、自分に会わなければよかったのではないかと考えるが、会わなくても、(被災した)同じ職場にいたかもしれないけれど」
10年経っても、「たられば」を思っている。それほど、理香子さんと、お腹にいた陽彩芽ちゃんを失った気持ちを引きずっているのだろう。
「子どもがほしいとなったときに、(理香子さんは)自分の仕事よりも、自分の生活を考える人だった。だから、仕事を保育園から幼稚園に変えたんです。保育園は、幼稚園よりも仕事の時間が長い。3歳児未満の子どもが多いので、体力的にも負担はかかっていた。でも、幼稚園は3歳児以上が多く、時間も早く帰れる。以前は、釜石保育園に勤めていたんです。地震があったときに(釜石保育園の園児たちが)高台へ逃げたと知ったときには、助かってよかったと思った。嫁が見ていた子どももいたしね。
地震の直後に、鵜住居に走っていればよかった。自分の商売があったので、店に残ってしまった。地震直後に行けば、津波がくる前に現場にはついたはず。渋滞は、こっちから行くには発生していなかったし」
実家に戻るために部屋を整理して……
後悔の念は消えるものではないのだろう。ただ、自身の生活にも変化がある。
「この前、部屋を整理してて、(理香子さんの)下着を捨てたんです。というのも、親も高齢なので、実家に戻らないといけないと思って。そのため、今のアパートの荷物を片付けないといけないと思ったんです。それで、下着を袋につめたんですが、2ヶ月放置した。なかなか捨てることができなかった。でも、捨てなきゃいけない。だって、生きている人、親を守らないといけないから。捨てるのは断腸の思いだった。捨てられないのは、寂しさというよりも、(理香子さんがいた)形がなくなっていくと思ったから」
震災10年は、ほぼ片桐さんの40代の人生とも重なる。どんな40代だったのか。
「結婚したのも、震災があったのも、人生の一番の悲しみも、悔しさも、苦しかったのも40代に人生のすべてが積み込まれている。震災があったからこそ出会った人もいる。一人という時間を長く過ごしたのも40代。人生のすべてを経験したかもしれない。今後は何も考えてない。なるようにしかならない。仕事を一生懸命するしかないですね」
そう話した片桐さんは、今年の3月11日も地震発生の時間と津波襲来の時間には、鵜住居地区を訪れる予定だ。
写真=渋井哲也
(渋井 哲也)