報道の執念伝えた「石巻日日新聞」の壁新聞…「死ぬまで石巻に住んで死ぬまで撮り続けたい」渡邊裕紀さん

宮城県石巻市の地域紙「石巻日日(ひび)新聞」は震災直後、手書きの壁新聞を避難所に掲示して報道の執念を世に伝えた。同紙記者・渡邊裕紀さん(39)は被災者の声に耳を傾け、写真家としても被災地の今を撮り続けてきた。あれから10年。ファインダー越しに見つめてきた被災地への思いを聞いた。(北野 新太)
震災を経験し、今を生きる全ての人々は10年分の年齢を等しく重ねてきた。渡邊さんにとって3月11日は個人的な節目でもある。
「自分、誕生日なんですよ。あの日、30歳になったんです。あれからの誕生日はいつも複雑な気持ちでした。ひとつ年を取るのと一緒にあの日を迎えるので」
カメラマンとして写真館に勤めていたが、2010年、石巻日日新聞に紙面制作担当として入社した。半年後に迎えたのが「3・11」だった。
「今も記憶は鮮明に残っています。地震が起きて津波が来たので、会社の近くにある山に避難しました。朝に同僚からもらったあんぱんを頬張りながら川のようになった夜の街に降りて、沈んじゃったと思っていた自宅は何とか無事で…。あと、夜空の星がとてもきれいだったことを覚えています」
印刷機能を失った石巻日日新聞は6日間、壁新聞を避難所に掲示。印刷再開後も避難所で無料配布するなど地域紙としての役割を担い続けた。渡邊さんは翌年から記者になり、カメラを手に被災地の現状を追ってきた。
「たしかに街は日々変わり、日常を取り戻しつつあります。震災の話をする機会も少なくなりました。でも『復興』の捉え方はそれぞれ違います。自分は肉親を失いませんでしたが、たくさんの方は失った。新聞に『復興への階段』という欄もありますけど、それぞれで歩みは異なるんです」
震災前、生まれ育った石巻に思い入れはなかった。
「退廃的で遊ぶところもないようなネガティブなイメージしかなかったんです。でも、震災後に人々の結束を知りました。今は郷土としての価値、地方であることの魅力を強く認識するようになりました」
石巻日日新聞は今も地域に寄り添い、地域に根ざした報道を続けている。
「もう石巻を出る気持ちはありません。死ぬまで石巻に住んで、死ぬまで石巻を撮り続けたいです。カメラを持った者として、何につながるかは分からなくても残していきたいです」
あの日、30歳を迎えた青年は11日、40歳になる。
「1年後や2年後は『おめでとう』なんて言われませんでしたけど、5、6、7年と過ぎると、お祝いしてもいいのかな、と思えるようになりましたね」
◆石巻日日新聞(いしのまきひびしんぶん)1912年創刊。石巻市、東松島市、女川町を発行地域とする夕刊日刊紙。発行部数は8000部。震災当日、停電と浸水で輪転機が使用不能になったが、手書きの壁新聞を6日間にわたって避難所6か所に掲示。報道姿勢が世界中のメディアで話題になり、新聞協会賞などを受賞。月刊誌「地域みっちゃく生活情報誌んだっちゃ」も発行。社員28人。