「勝ったよ」「救済の道筋が示された」。アスベスト(石綿)による建設作業員の健康被害について、国とメーカーの責任を認めた17日の最高裁判決。苦しみながら亡くなる家族を目の当たりにし、遺族として裁判を闘ってきた原告たちは、思いを大筋でくみ取った司法判断に喜びをかみしめた。与党のプロジェクトチーム(PT)が示した和解案を評価する声も上がった。
午後3時、新型コロナウイルス対策で傍聴席が最も広い最高裁大法廷で判決が言い渡されると、正門前で原告の代理人弁護士らが「国・建材企業に勝訴」と書かれた紙を広げた。集まった100人以上の支援者らからは大きな拍手が起こった。
「やっと良い報告ができる」。2008年に夫秀男さん(当時72歳)、10年に次男圭二さん(同40歳)を肺がんで亡くした横浜訴訟の原告、栗田博子さん(81)=横浜市=は、目を潤ませた。
15歳で大工となった秀男さんは、休日は自宅前の公園で少年野球の監督として地域の小学生を指導。長男浩和さん(58)と圭二さんもチームで活躍した。兄弟は父の背中を追って大工となり、1990年代半ばから親子3人で「栗田工務店」を営んだ。
現場を飛び回った3人は、建材の切断作業でアスベストにさらされた。背中の痛みを感じた秀男さんが、肺がんと診断されたのは07年。手術で腫瘍は摘出されたが、肺はぼろぼろの状態だった。08年6月に再入院。面会を終えて博子さんが病院を離れると、秀男さんは寂しそうに病室の窓から見送った。1カ月後、秀男さんはこの世を去った。
「背中が痛い」。約1年後、今度は圭二さんが秀男さんと同じ苦しみを訴えた。がんは背中の神経まで侵食しており、医師からは「手術はできない」と告げられた。石綿が原因と分かってから3カ月後の10年12月、圭二さんは婚約者を含めた家族一人一人に小さな声で「ありがとう」と感謝し、息を引き取った。40歳の誕生日を迎えた直後だった。
17日の判決は、秀男さんの被害に対する国とメーカーの責任を明確に認めた。遅れて提訴した圭二さんについては今回の判決の対象ではなかったが、1、2審は勝訴しており、国の責任が認められる公算が大きい。
秀男さんの被害について提訴してから13年。「これまで本当につらかったが、良い結果が出て気持ちが軽くなった。仏壇で2人に報告したい」。判決後、博子さんは語った。
屋外作業員は敗訴 遺族「認められず残念」
一方、粉じんが外気で飛散する屋外作業員については、「被害が予見できない」として、国とメーカーの責任がいずれも否定される結果となった。逆転敗訴となった大阪訴訟の原告、山本百合子さん(72)=兵庫県尼崎市=は「遺族にとっては屋内も屋外も違いはない」と肩を落とした。
屋根工だった夫晃三さんは、67歳だった12年に肺がんで亡くなった。95年の阪神大震災後は、倒壊した家屋の復興で寝る間を惜しんで働いた。百合子さんは、石綿入りの屋根材を加工する度に粉じんで体中真っ白になる夫の姿が今も目に焼き付いている。
「わしから仕事を取ったら、何も残らんわ」が口癖だった晃三さん。65歳で発症してからは抗がん剤の影響などで常に苦しそうな様子だった。判決後の記者会見で百合子さんは「主人の亡くなる時の苦しい顔を思い浮かべながら判決を聞いた。認められず、残念で悔しい」と声を詰まらせた。
弁護団によると、全国で元作業員1000人の健康被害を巡って約20件の集団訴訟が起こされたが、既に約680人が亡くなり、原告の高齢化は顕著だ。東京訴訟弁護団長の小野寺利孝弁護士は「与党PTの救済案は全面解決に向けた大きな一歩。企業側も和解のテーブルに着くよう訴えていく」と力を込めた。【近松仁太郎、遠藤浩二、遠山和宏】