震える手で「無事でいてくれマナりこ」とLINE、いつまでも既読にならず…池袋暴走の遺族・松永拓也さんの意見陳述全文

東京・池袋で2019年4月、乗用車が暴走し、松永真菜さん(当時31歳)と長女の

莉子
(りこ)ちゃん(同3歳)が死亡、通行人ら9人が重軽傷を負った事故で、自動車運転死傷行為処罰法違反(過失運転致死傷)に問われた旧通産省工業技術院元院長・飯塚幸三被告(90)の公判が15日、東京地裁(下津健司裁判長)であった。検察側は論告で「被告は不合理な弁解に終始し、遺族らに絶望を与えている」と述べ、禁錮7年を求刑。弁護側は無罪を求めて結審した。判決は9月2日。
15日は論告に先立ち、遺族が意見陳述した。真菜さんの夫の拓也さん(34)はおえつをこらえながら、「2人の穏やかな人柄を思うと、本当は被告を憎みたくはない」と心境を吐露し、「この2年間、被告に心を踏みにじられ続けてきた。重い実刑判決を望む」と訴えた。
拓也さんは閉廷後の記者会見で、この日の陳述に向け、昨年末から、仕事を終えて帰宅した後、深夜までパソコンに向かっていたことを明かした。陳述書はA4判11ページに及び、真菜さんとの出会いや莉子ちゃんの成長ぶり、家族の将来の夢も書き込んだ。拓也さんは「1行書いては涙が出てきて書けなくなり、パソコンを開いては閉じる日が続いた」と声を詰まらせた。
「無罪主張が遺族の苦しみにつながっている」。そう伝えたいと考えていたが、被告は過失を認めないままだった。拓也さんは落胆した様子で、「全身全霊で臨んだが、心を変えることができなかった」と語った。

拓也さんの意見陳述の全文は以下の通り。

私は、松永真菜の夫であり、松永莉子の父でもある松永拓也です。あの事故により、突然一人残されてしまいました。本日は、命を奪われた妻と娘がどんな人だったか、私にとってどれほど大切な存在だったのか。どれほど愛し、幸せだったのかについてお伝えします。
本来は、いくら時間をいただいても、どれだけ言葉を重ねても足りません。ですが、懸命に生きて輝いていた31歳の女性と、たった3年しか生きられなかった女の子のことを、どうか知っていただきたいです。そして、どん底に突き落とされた遺族の悲しみや葛藤と、被告が無罪を主張することに対する苦悩をお伝えします。そして、飯塚幸三被告に対し、法律で与えられる範囲で最大の刑罰を与えていただきたく、意見を述べます。

妻である松永真菜のことは、いつも「真菜」と呼んでいましたので、この場でも「真菜」と呼びます。
真菜とは、平成25年(2013年)、沖縄の母方の親族の集まりで出会いました。私が27歳、真菜が26歳でした。2人で夕食を共にすることになり、待ち合わせで出会った瞬間に、とても美しい人だと思い、私は一目惚れしました。真菜は寡黙な性格でしたが、食事中ずっと私の話を笑顔で聞いてくれました。
温かく穏やかな真菜の人柄に


(ひ)かれ、東京に帰ってからも毎日電話をし、月に2~3回は東京から沖縄に会いに行きました。様々な観光地や島巡りをし、これ以上無い程に楽しい日々でした。今でも色


(あ)せない大事な思い出です。真菜は人の悪口や愚痴を決して言わない人でした。出会った日から亡くなる日まで、たった一度も聞いたことがありません。私はそんな彼女を、心の底から尊敬していました。
真菜に交際を申し込みましたが、2度断られました。後で知ったのですが、真菜はお姉さんを白血病で亡くしており、ご家族のことを想うと、どうしても沖縄を離れる決断が出来なかったそうです。
その年の11月4日、これで駄目だったら諦めようと心に決め、3度目の交際を申込みました。真菜は、「今日は何日か知っている? 11月4日だよ。『いいよ』の日だよ」と照れくさそうに言い、交際を受け入れてくれました。言葉で言い表せないほど


(うれ)しかったです。
その後も遠距離で交際を続け、平成26年(2014年)5月にプロポーズしました。「頼りない男だけど、あなたを幸せにしたい気持ちは誰にも負けません」。そう伝えると、真菜は「嬉しい」と言い、泣き出しました。その様子を見て、彼女を幸せにしようと心に誓いました。
結婚の許可をいただくために真菜のご両親の元へお伺いすると、快く受け入れてくださり、本当の家族のように接してくれました。しかし、遠く離れた東京へ娘を送り出すという苦悩があったと思います。私は、真菜のご家族に心から感謝しました。
翌年11月4日に籍を入れると、真菜と千葉で生活を始めました。仕事から帰ると、真菜が「おかえり」と言って出迎えてくれる。遠距離が当たり前だった私達にとって、この日常は本当に幸せでした。
私は腎臓が弱かったのですが、彼女は「私が治してあげる」と宣言し、腎臓にいい料理を調べて実践してくれました。そのおかげで私は目に見えて元気になりました。それ以外にも、私は彼女の人間性、他者に対する愛の深さから多くを学び、精神面でも成長させられました。彼女が


(のこ)してくれたものは、今もなお私の中で生き続けています。

平成27年(2015年)のとある日。私が仕事から帰ると真菜が飛びついてきて、子供を授かったことを伝えられました。歓喜の声を上げながらリビングで小躍りをし、喜びあったことをよく覚えています。
少しずつ大きくなる真菜のお


(なか)に、毎日一緒に話しかけました。真菜はお腹を


(いと)おしそうに


(な)でながら、「ベビーちゃん、早く


(あ)いたいね」と言い、心から幸せそうな顔をしていました。真菜は

悪阻
(つわり)がひどく、一日中動けない日もありましたが、新しく生まれてきてくれる命に思いを馳せ、2人で協力しながら日々を過ごしました。
翌年の1月11日、立ち会い出産を選択した私は、真菜と共に

分娩
(ぶんべん)室にいました。真菜はとても我慢強い人なので声一つ出しませんでしたが、痛みに耐えながら私の手を力いっぱい握り、私も握り返しながら「頑張れ、頑張れ」と声をかけ続けました。そして、莉子も頑張って生まれてきてくれました。3170グラムの小さな命を胸に抱き、真菜は「かわいい」と涙を流しました。次に私が莉子を抱きしめると、小さな手で私の指を握り返してくれました。その


(ぬく)もりを感じながら、命が生まれることはなんて神秘的なのだろうか。我が子というのは、なんて愛おしいものなのだろうか。そう感じ、私も涙を流しました。そして、命をかけて莉子を産んでくれた真菜に感謝しました。自分が父親になったことにまだ実感がわかないものの、「この2人を守り、絶対に幸せにする」と心に誓いました。
「莉子」という名前は、真菜と2人で考えました。香りのいい花を咲かせ、人々を癒やす、ジャスミンの花が由来です。花言葉は「愛らしさ」です。ジャスミンのように

可憐
(かれん)で、人を癒し、人から愛される。そんな人になってほしいという願いを込めて、ジャスミンの日本語名である「茉莉花」から漢字を用い、莉子という名前に決めました。
真菜に似た恥ずかしがり屋で、優しく、愛らしい女の子に成長しました。そして、とても賢い子でした。お友達とおもちゃの取り合いになっても、「貸して」と言われると「いいよ」と貸してあげる子でした。文字が読めないのに、家にある何十冊もの絵本を全て記憶して音読できました。真菜が体調を壊して寝込んだ時には枕元に行き、「お母さん大丈夫? 莉子のこといっぱい抱っこしたから疲れちゃったの?」と本気で心配するような子でした。仕事から帰ると必ず莉子が玄関で待っていてくれて、「おかえりなさい」とお辞儀をしてくれるのが

可愛
(かわい)くて、嬉しくて、幸せでした。身長92センチ、体重13キロにまで成長し、出来ることも増え、日々成長する喜びを感じていました。
莉子はお母さんが大好きで、どこに行くにも、何をするにも2人は一緒でした。私が仕事に行っている間、2人でおやつを手作りしたり、公園に遊びに行ったり、買い物に行ったり、全て一緒でした。
仕事で不在の私がそれを知っているのは、真菜が育児日記を書いていたからです。2人だけの出来事や、「お父さんと初めて言えた」「初めてトイレができた」など、莉子が産まれてから千日以上の記録です。家事育児に疲れ果てながらも、一日も欠かさず書き残してくれました。この育児日記は、真菜の人柄と莉子への愛が詰まった私の宝物です。2人の生きた証です。証拠にもあるので、是非ご覧いただきたいです。
私が休みの日は、3人で色々なところに行きました。春は花見、夏は海やお祭り、秋は紅葉を


(み)に行き、冬は莉子が好きだった温泉に。暖かい日は、真菜の手作りパンを持って、3人でよくピクニックに出かけました。一番の思い出は、平成30年(2018年)に北海道へ家族旅行をしたことです。見渡す限りの広大な大地を3人で走り回ったことや、旭山動物園でキリンを目の前で見てはしゃぐ莉子の嬉しそうな顔をよく覚えています。どこに行くにも、3人で手をつないで出かけました。
ある日の夜、莉子を寝かしつけたあと、真菜が遠慮気味にこう言いました。「3人で沖縄に移住したい。そして海のそばに、中古でいいから、小さくていいから家を買って、そこで生きていきたい」。その言葉を聞いた私は、なんて真菜らしく素敵な夢なのだろうと思い、平成32年(2020年)に沖縄に移住しようと約束しました。
移住の準備を続けながら、穏やかに3人で幸せな日常を過ごしました。莉子は成長して、学校に通い、大人になって独り立ちして、真菜と命果てるまで一緒に生きていく。漠然とそう思っていました。

平成31年(2019年)4月19日。
仕事の日は必ず2人がお見送りをしてくれて、玄関で3人抱き合いながら「いってきます」「いってらっしゃい」を言い合うのがお決まりでした。あの日もそうでした。まさか、それが最後のお別れになるなんて思ってもいませんでした。
昼休みに真菜と莉子にテレビ電話をするのが日課なので、いつも通りテレビ電話をかけると、2人は南池袋公園で遊んでいて、今から帰ると言っていました。「自転車なんて珍しいね、気をつけて帰るんだよ。今日は定時で帰るよ」と伝えました。
14時ごろ、仕事中の私の携帯電話に警察から電話があり、真菜と莉子が事故に遭ったと告げられました。無事なのか、命はあるのかと聞いても詳細は教えてもらえませんでした。突然の知らせに混乱しつつも、両親と沖縄のお

義父
(とう)さんに連絡をし、電車に飛び乗って病院に向かいました。「これは夢だ」と何度も自分に言い聞かせました。その時、私の携帯電話にニュース速報が飛んできました。「池袋の事故、30代と思われる女性と、3歳位の女児が心肺停止」。手足がガタガタと震えだし、電車の床に座り込んでしまいました。震える手で真菜に「無事でいてくれマナりこ」とLINEを送りましたが、いつになっても既読にはなりませんでした。まさに地獄のような時間でした。
病院に到着すると、医師から「即死でした」と宣告されました。私は泣き叫ぶことしかできませんでした。身元確認のため、2人の遺体の元へ案内されました。真菜の顔にかけられた布をめくると、あんなに美しかった真菜の顔は、傷だらけで、氷のように冷たくなっていました。次に莉子の顔を見ようとすると、看護師が気まずそうに、「お子様のお顔は見ないほうが良いと思います」と言ってきました。顔にかけられた布がうっすらと血で染まっており、状況を察しました。小さな手を握っても握り返してくれることはなく、生まれたときの温かい手、いつも3人で


(つな)いでいた手とあまりに対照的で、底知れぬ絶望を感じました。
翌日、警察署へ運ばれた2人の元へ赴くと、葬儀屋から、莉子の顔の修復作業をするかどうか尋ねられました。できれば修復してあげたかったのですが、損傷が


(ひど)いので3日間も離れ離れになると言われ、断腸の思いで断りました。幼い3歳の娘を一人にするなんて

可哀想
(かわいそう)で、一緒に居てあげたいとしか考えられませんでした。
そして2人を家に送ってもらい、自宅に並べられた2つの


(ひつぎ)の蓋を交互に開けては、ずっと語りかけました。真菜には、出会ったときの話から始まり、どれだけ愛しているのか、感謝しているのかを。莉子には、私たちの子供に生まれてきてくれたこと、

沢山
(たくさん)の幸せをくれたことに、ありがとうと。二度と出来ないと思い、大好きだったノンタンの絵本を、何度も読み聞かせしました。眠れるはずもなく、深夜に「ちゃんと莉子の顔を見てお別れを言いたい」と思ってしまい、顔の布をめくろうとしました。しかし、少しめくっただけで分かりました。莉子の顔は完全に陥没していました。全部見たら私の精神が壊れてしまうと察知し、諦めました。最後のお別れなのに、娘の顔すら見ることが出来ない無念さは計り知れないものでした。
火葬場の都合で、葬儀まで5日間ありました。葬儀の日に被告人側の親族から謝罪の申し入れがありましたが、精神的に疲弊しきっている上、葬儀の準備で多忙を極めていたためお断りしました。加えて、飯塚被告が「アクセルが戻らなかった」旨の供述をしていると聞いており、車が悪いと主張するのに謝罪したいという意味が、私には分かりませんでした。
葬儀には沢山の人が来てくれました。一人ひとり、花を一輪ずつ2人の棺に入れていき、真菜と莉子は次第に花に埋もれ見えなくなりました。私は2人とお別れしたくなくて、何度も2人の棺を行き来し、「愛している、ありがとう」と泣きながら伝え、傷だらけのおでこに口づけをしました。棺の蓋を閉められたくなくて取り乱し、何度も2人の棺を往復しました。その後、2人は骨になって帰ってきました。

時速約96キロの車にはねられた自転車は真っ二つに割れ、真菜だけ50メートル弱も吹き飛ばされたと聞きました。あんなにいつも一緒にいた2人が、最後の最後に離れ離れになってしまった。どれだけ無念だっただろうか。どれだけ痛く、怖かっただろうか。守ってあげられなかった。「生きている意味がない。自分も死んだほうが良いのではないか」と自問自答し続けました。
しかし、愛する2人の命だからこそ無駄にしてはいけない。そう思うようになり、葬儀後に記者会見に応じました。交通事故の悲惨さを世の中の方に現実的に感じてもらえば、巡り巡って交通事故で亡くなる命を一つでも減らせるのではないか、そうすれば「2人の命を無駄にしなかったよ」といつか2人に言えるのではないか。そう思っての行動でした。
その数日後、初めて何時間か眠れた時に夢を見ました。私が自宅のドアを開けると真菜が居て、「どうしてここに居るの?」と尋ねてきました。私は、2人が亡くなったのは夢だったと勘違いして、嬉しくて真菜に抱きつくと、「一人にしてしまってごめんなさい、あなたに出会えて幸せだった」と言われました。莉子は一緒ではないのかと尋ねると、「莉子は、この世に顔を置いて行きたくないと言って泣くので、困っている」と言われました。あまりの衝撃で目が覚めたあと、胸がえぐられるような


(おも)いでした。
その後も、悲嘆と葛藤と苦悩の日々でしたが、「2人の命を無駄にしたくない」という想いは変わらず、関東交通犯罪遺族の会に所属し、国土交通大臣へ要望書を提出したり、内閣府主催の会議に参加したりして、交通事故撲滅活動を続けています。
一方で精神的に不安定になり、眠れない日が続いています。時折、手の震えが止まらなくなります。今でも月に1度、被害者支援都民センターに赴き、臨床心理士のカウンセリングを受けています。
ある日、被告がテレビのインタビューで、「安全な車を開発するようにメーカーの方に心がけていただき、高齢者が安心して運転できるような世の中になってほしいと願っている」と答えていました。あまりにも軽く、他人事のような発言で、侮辱されているような気持ちになりました。その後、被告からの謝罪要請が何度か来ましたが、謝罪の意味が分からないので全て断りました。そして、起訴される寸前の令和2年(2020年)1月17日を最後に、謝罪要請は来なくなりました。私たちに対する思いは、その程度なのでしょう。

私は法律の専門家ではありませんが、私なりに思うことを述べます。
大前提として、無罪主張をする被告の権利は否定しません。大いに権利を行使すればいいと思います。その上で、被告を裁くのは裁判所だと認識しています。とはいえ、私は遺族として、被告は全く反省していないと思っています。
この後、検察官から被告の主張は

一蹴
(いっしゅう)されることと思いますが、被告の主張は常識的にも、技術的にも、あまりにも無理があると思います。被告は、日本の中でもトップクラスの工学的知識を持ち、論理的思考が出来るはずです。だからこそ、自分の主張に無理があることは、本人が一番よく分かっていると思います。弁護人は「無罪主張は無理がある」と進言しなかったのでしょうか。
前回の被告人質問で、「故意に事故を起こしていないことを理解している私たちが、なぜあなたに怒りを感じていると思っているか」と聞いた時、被告は、「被害者が加害者を許さないのは当然で、致し方ないことだ」と言いました。違います。数々の証拠を突きつけられてもなお荒唐無稽な主張を続ける被告に対し、私たちは2年間も苦しめられ、憤りを覚えているのです。
私が、真菜と莉子の名前を認識しているか、生前の写真を覚えているかを一番最初に聞いたのはなぜだと思いますか。それは被告が、命や遺族と向き合っているとは思えなかったからです。名前というのは、親から子への最初のプレゼントであり、願いを込めてつけられ、一生を終えるまで大切にするものです。莉子がそうだったように、漢字にも意味があります。被告は、自身が奪った命なのに答えられませんでした。生前の写真も、すべて番号を振り、どのような写真なのかを言葉で補足してあるのに、全て間違えていました。調書によると、被告は、自動車の不具合情報などをインターネットで調べていたそうですが、2人に対しては興味がなかったのでしょう。
被告には、事故から2年以上も時間がありました。2人の命を奪い、9人もの方々に重軽傷を与え、何人もの人生を狂わせたことを真剣に考えたのでしょうか。2年間向き合った上での主張でしょうか。第1回公判で、私たちに向かって謝罪をしましたが、過失がないと言いながら謝罪をする意味が分かりません。裁判で罪を軽くするための口先だけの謝罪だと思っています。私は被告が裁判で述べた謝罪は一切受け入れていませんので、形式上謝罪をしたという理由で絶対に減刑しないでください。
今日、生前の2人の話や、自身が奪った命、私たち遺族の無念を聞いて、飯塚被告はどう思うのでしょうか。「どういう2年間を過ごしていたか」という被告人質問に対し、リハビリが


(つら)かったと答えてしまう被告ですから、特に胸は傷んでいないと思います。遺族や被害者の言葉を全てを漏らさずにしっかりと聞いてもなお無罪だと思うならば、大いに権利を行使すればいいと思います。ただし、それを突き通すなら、一生重い十字架を背負う覚悟をしてください。

私は、実刑判決が出ると信じています。しかし、高齢や健康状態を理由に収監されないかもしれません。被告側もそれを見越しての無罪主張でしょうか。2人の尊い命や、未来はもう戻らず、被告が責任を取りきれることはありません。だから、せめて重い実刑判決でないと、私たち遺族は到底納得できないし、社会に大きな禍根を残すことになると思います。
人を憎み続けることは辛いことです。私は元々、人を責めるのは好きではありません。真菜と莉子の穏やかで、人を愛する人柄を想うと憎みたくない。せめて命と向き合ってほしい。でも、被告に心を踏みにじられ続ける。2年間、ずっと私は葛藤してきました。葛藤の末、今こう思っています。被告は、刑務所に行かなければ罪と向き合うことは出来ない。刑務所に行き、命や無念と向き合う時間を持つことが、真の意味で心からの償いになると。
真菜と莉子の命は、戻りません。飯塚被告によって感情を逆なでされ続けた私たちの心も、決して元には戻らないでしょう。

怪我
(けが)をされた多くの方々をはじめ、私たち遺族が今後少しでも回復し、前を向いて生きていくためにも、裁判所には重い判決を下していただきたいです。
以上より、被告には重い実刑判決を望みます。