難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51歳)に頼まれ、薬物を投与して殺害したとする嘱託殺人罪などで医師2人が起訴された事件は、30日で発生から2年を迎えた。両被告は2021年6月、うち1人の父親を殺害した罪でも起訴された。事件が社会に投げ掛けた重い問いを、介助の現場を知る専門家や生命倫理の識者とともに改めて考えたい。
「自己決定」で済ませるな
<渡辺琢・NPO法人日本自立生活センター自立支援事業所理事、介助者>
障害者介助の現場に介助者や介助派遣のコーディネーターとして20年以上携わり、障害者の自立生活運動にも取り組んできた。事件による影響を聞かれるが、少なくとも私の周りでは表面上、深刻な変化はない。周りの障害のある人たちは皆に支えられ、生きることが肯定されているからだ。
事件を機に「安楽死」推進の動きが広がったといわれている。本当にそうだろうか。個人的には事件前の方が、安楽死を安直に美化する主張がされていたと感じる。今回の事件は嘱託殺人だが、安楽死といえども「安楽」で済むとは限らない。医療者を関与させなければならず、悪意を持つ医師の手にかかるかもしれない。そうした負の側面が具体的にイメージされるようになり、一種の危険性を世間は比較的冷静に受け止めた面もあるのではないか。
被害者の女性は安楽死を望み、情報収集していた事実はある。その点をどう深く考えるかは重要なことだ。女性の残したメッセージを読むと、一時的な気の迷いではなく、強い意志があった様子がうかがえる。死にたい程のつらさ、苦しみも本物だったのだと思う。
本人が望んだ「自己決定」だから仕方ないという声は根強い。だが、それで済ませてはならない。難病患者にだけ、その言い方が通用するのはおかしい。自己決定の背景をなすものを丁寧に考える必要がある。
私はこの女性の支援に関わっていないが、仕事柄知り得たこともある。彼女が受けていたケアの一部に要因の一つがあったかもしれないが、私の知る限りケアがずさんだったとは言い切れない。難病の進行と同時に複数の事業所が入って、彼女がケアを自分でコントロールできなくなる不安や恐怖はあっただろう。ただ、慢性的な人手不足の中でも現場の医療者・介助者は懸命に取り組んでいた。
難病ばかりに目が行きがちだが、「安楽死を望む人=難病患者」ではない。毎年多くの人が自殺で命を落としている。これらは自己決定とは呼ばれず、むしろ社会的な問題だ。自己決定の問題にしてしまえば、社会の側は自分たちの汚れを見なくて済むことになる。
事件化はしていないが、難病患者や障害者を巡っては、医療者が死の方向へ誘導する事例も起きている。人工呼吸器を装着する際に「気管切開したら家族は面倒を見続けるために縛り付けられる」などと誤った説明をし、家族の判断を導くケースだ。嘱託殺人罪に問われた医師2人の行為と本質的に通底しているが、密室でひっそりと行われ、表面化しにくい怖さがある。
最後に、私たち障害者運動団体のメッセージの出し方も再考したい。私たちには「生きることを押し付けている」といった批判が少なくない。もちろん、そんなつもりはない。だが、そう捉えられていたら、死を考えている人ほど近寄らなくなる。どうすれば「閉ざされた自己決定」にならず、生きて良かったと思ってもらえるものを提供できるのか。重い課題を考え続けたい。【聞き手・千葉紀和】
わたなべ・たく
1975年生まれ。京都大文学研究科博士前期課程修了。2000年に介助者登録。自立生活運動に取り組み、京都市の24時間介護保障などに尽力。近著に「障害者の傷、介助者の痛み」(青土社)
「安楽死」論の拡大を懸念
<大谷いづみ・立命館大教授(生存学研究所副所長)>
生命倫理を高校や大学で教えて35年になる。コロナ禍で今後も経済格差の拡大が予想される中、この事件を事例に「安楽死」是か非かの二択で論じられていくことを強く懸念している。
この事件は「安楽死」ではなく「嘱託殺人」だ。限られた報道から判断するしかないが、実行した2人の医師が、片方の父親を10年前に殺害した容疑と併せると、「嘱託」を付けて呼ぶことさえ、はばかられる。
被害女性が生前、安楽死の合法化を求めていたというSNS(ネット交流サービス)上の言葉ばかりが取り上げられるが、「スイスで安楽死を遂げた日本人女性を追ったNHKのドキュメンタリーを見た後、自殺ほう助への思いを強めていった」という主治医の言葉にも注目したい。
番組が焦点を当てたのは、被害女性と重なる点も多い同い年の神経難病の女性だ。重度障害や難病の人々の生を否定して自殺へと背中を押しかねない、という批判が多かった。番組は一見中立に問題提起しているように見えるが、難病を抱えて生きるのが大変な場面を見せつけられ、安楽死を選ぶ人や手助けする人に共感しやすいつくりになっている。議論は大切だが、安楽死を正当化する方向へと導いてはいないだろうか。
私は乳児期に患った感染症ポリオの後遺症で、両下肢に障害がある。過労による転倒事故で障害が重度化し、入浴や家事など訪問介護で綱渡りの生活だ。今回の被害女性が受けていたケアは、多くの事業所からヘルパーが派遣されていて、男性の介助もあったという。小さな行き違いの積み重ねが不幸な結果に結びつくことはなかっただろうか。そう思いつつ、遺族やケアに当たっていた人たちのやりきれなさも想像できる。
「生きたい」と「死にたい」。二つの思いを揺れ動く中で「死にたい」という言葉だけが切り取られ、天与の権利であるかのように称せられる一方、生きてほしいと願う家族や友人の思いを「エゴイズム」と評することにもとても違和感がある。「私」限定で求めたはずの「死ぬ権利」が、いつの間にか家族や社会の迷惑にならないよう、「死ぬ義務」「死なせる義務」を引き寄せてしまいかねないことに注意が必要だ。
被害女性は難病だったが、コロナ禍で経済格差は更に広がり、多くの人が休職や失職に追い込まれている。劣悪な条件で医療、介護・保育、役所、販売、物流、交通、清掃など必要不可欠な仕事に携わっている人々は感染と隣り合わせだ。感染後の後遺症で休学や休職・失職に追い込まれている現役世代も顕在化した。社会全体にいらだちや不安が高まり、しわ寄せが弱い立場の人たちを直撃している。女性や子どもたちに起きている虐待や自殺増加も地続き・表裏の問題だ。
コロナが早期に収束しても、自己決定・自己責任論の中で拡大した格差は、弱い立場の人を更に追い詰めかねない。弱い立場同士で切り捨て合うのではなく、人と人の支え合いをキレイゴトと排することのない社会に向けた議論を考えたい。(寄稿)
おおたに・いづみ
1959年生まれ。博士(学術)。専門は生命倫理学。日本医学哲学・倫理学会理事。共著に「見捨てられる<いのち>を考える―京都ALS嘱託殺人事件と人工呼吸器トリアージから」(晶文社)